「逃げ」とは何かについて1-time up ver

 

 軍事的な観点からは「平和・繁栄」†0に属するといえる時代、でありながらも、労働・勤勉・清貧・道徳、と呼ばれるものが、蔓延った時代に何が起きるのか。

 私には、当時、人気を博したドイルの作品に目を向けずにはいられない。

 何故なら、コナン・ドイルの時代は顕著に「価値観の頼りなさに惑う時代」†1が観得る時代であるように思うからだ。

 ドイルが言いたかったこと、を、視るためには、ヴィクトリア時代のロンドンに眼を向けること、が、重要に思われる。

「紳士/淑女たち」の外見上の振る舞い≒仮面を剥せば、「その逆の最たる者たち」となる時代。

 ヴィクトリア時代後半の、薬物・煙草・アルコール・娼婦に身を委ね、その快楽に拠って死亡した者と消費量の関係性が高いため、ある程度の、予測、曳いては、それを、立証できる。

 特にヴィクトリア時代後期は、そのような二面性に注目した、ステーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」が生まれ、ドイルと(orにより)ホームズが生を受けた時代である。

面白いことに、ヘビースモーカーで薬物・賭博依存である、ホームズ自身が「真実」・「真相」を暴いている。

(これは、同じ推理小説という分野から「戦争・混乱」†2、二度の世界大戦にmessageをポアロを通じて「人間の業」について投げかけた、アガサ・クリスティー以て非なる部分を生み出してもいる†3。)

ニーチェやバーナード・ショウのいう「超人」を大衆やドイルはホームズに投影したのかもしれない。

フランスでいう、ナポレオン・ボナパルトのイギリス的存在を人々が、「ennui(≒この場合平和による倦怠)からの穏やかなる†4逃走」を文学の中に求めていたのでもあろう。

「悪癖のある超人」、のちに日本でいえば梶井基次郎、延いては、三島由紀夫あたりが目指した人物像かも知れない(決して太宰ではないように思う。単に筆者が太宰ぎらいであるからであり、完全な趣向が働いた私見であることに留意されたい)が、ホームズは、コカイン中毒である描写が散見される(ex:「四つの署名」)

 実際、先にも挙げたスティーブンソンもアヘンに耽溺していた。

 当時「も」、コカインやアヘンは単なる道徳的ではなく不健康(†5:現在の精神疾患についてのマニュアルとして名高いDSMなら、それらの状態を、どう、裁くであろうか?)とされていた。

アルゼンチン帰りの「軍医」ワトソンには好まれざる習慣≒悪癖と映る描写も散見される。産業革命以来の「自然な身体の阻害・排除」†6の体現こそ、ワトソンにも思える。

いつの世も「世間」とはよく見れば個性も持論もないひとりひとりの眼の集合体であるのだが、彼らが、「卑俗な身を滅ぼすもの」≒「悪癖」といえないものばかりが悪癖・狂気とされているように感ずる。

また、ホームズの孤独(学生時代の友達ゼロ)さから、ワトソンファンは意外に多いが、私は、ホームズの孤独は認めつつも、ワトソンの孤独こそ、泥濘のなかに脚を取られたものであり†7、孤独なエリート、孤独だったゆえの献身だったように思えてならない。

(続く)