「Because  you  are  you.」という考え方の再来。

 

   私が、高校時代の頃だろうか。

  SMAPの「世界で一つだけの花」をはじめて聞いたとき、大学受験しか見ていない視野狭窄な時期であったため、「負け犬肯定ソングだ」と思った、否、自分に信じ込ませた時期がある。

 

 『No.1にならなくてもいい、もともと、特別なOnly.1

 

 という歌詞が、偏差値や模試の順位に一喜一憂していた私にとって、我慢できないものだったのだ。

 

 結局、私は、志望校どころか、国立後期発表が過ぎてもセンター入試で受かった大学しかなく理系→文系となり、ますます、自分嫌いが増幅した結果となったのだったが……。

 

  暫くして、なぜフーコーが「常識」とは異なる見方に立ち、「狂気に関する異なった歴史解釈」をする事ができたのだろうか?と考えたり、自身が難治性うつと診断されるまで、その捉え方のままであったように思う。

  M・フーコーを読み始めたことがきっかけで「Because  you  are  you.」という考え方の再来かなあ、と肯定的にそれまで、眼を背けていた「世界で一つだけの花」の歌詞に向き合い始めたように思う。

 フーコーの思想は、彼の生きた社会も、男女の異性愛が「当然」であるという考え方に基づいて社会制度が成り立っているが、フーコー自身がホモ・セクシャルであったという事実を抱え、「当然」や「アタリマエ」とされるもの、に、深刻に向き合ったことが深く関係していると私は思う。

 

 「当然」・「アタリマエ」の定義(以降Def)をたいして考えずして何かを「当然」・「アタリマエ」として社会制度を維持していく事で、無自覚に同性愛の人たちを抑圧し「権力」を行使していることに、悩んだフーコーだからこそ語ることが出来る意見に彼の著書は、満ちていた

 

 しかしこのような「当然」・「アタリマエ」≒「真理(とされているもの)」はどのようにして生成されたのだろうか。

 

 視点を、一度、日本に向けて、森田療法の生みの親の、森田正馬氏のことばから、彼の思想を再評価してみたい。

 

 まず、森田の神経(質)症に対する指導の根底には、神経(質)症に限らず、「社会に適合できない」と感ずるものや、「適応しなければ」と焦るものが持つ不安や恐怖に対する理会があったと思う。

 それは、森田自身もやはり神経症に悩み、それを克服した事が関係しているだろう。

 ゆえに、森田はそのような恐怖や不安を常識的観点から「馬鹿げている」とせず、共感を示しつつ、それらを当然あるものとし、「受容する」ことで成長させようとした、と言えるだろう。

 森田は、患者の「純な心」(≒清い明き心・清明心※1)を大切にし、その上で不安や葛藤を受容しつつ、固有の生を生きる主体として世界に立ち向かう「ひとの在り方」を診ていたのではないだろうか。

 彼らの「哲学」は、「患者(とよばれるひと)が生きていく上で、社会での価値評価にそぐわない自分であったとしても、自己を放棄して生きるのではなく、自らの固有の生を生きることによって根本的な解決に至る可能性」を示している。

 

 森田の視座は、フーコーの思想を「励ましの思考」として捉える学者の視座に通じるものである、と私は、思う。

 

 彼らの思考とその経緯は、「フロイト、ビンスワンガー、カント等、多くの思想や理論が、真理として通用している共通の世界、常識的推論の世界への転向こそが、精神の再生をもたらすと説き」、そうした思想の流れのなかにあって、そのような転向によらずに人間の精神の根本的な再生へと至りうることを示唆している。

 

 ホモ・セクシャルや神経(質)症等の『ひと』たちを「異常なもの」・「病理的なもの」・「不自然なもの」と見なす根拠を理論化して排除し矯正しようとする『社会』では、そうした思考の様式はおきまりの「外部」からの抑圧や人を支配する力として彼ら/彼女らの異常性を疑う余地がないかのように顕わにし、彼ら/彼女らの欲望と存在そのものを否定する。

 

 現実の問題を解こうとしたフーコーにも森田にも、乗り越え難くむしろ自己の『内面』の心ならずの改変を『外部』から「押しつけられる」問題を抱える者たちは、引きつけられるのであり、どんな人間にも『あなたが、あなただから。=Because you are you.』、

『ここに居てよいのだ』という強い存在の肯定をみてとれよう。

 

  誰もが自分を肯定しながら生きていく事を森田の哲学は訴えている。

 

「皮相上滑り」な西欧輸入精神医学や心理療法の背後にある思考方法は、患者が望むか望まないかは別にして、医者が患者の上に立ち、患者を正常な、または社会的に望ましい人間像に適合させるという面があり、患者はそれに盲従する。

 すなわち関係としては、医者が患者に対して自己中心的に振舞う関係であるといえよう。

 それに対し、フーコーの思想や、森田療法は、日常生活の指導などで、権威主義的に見えようとも、その理論は本人の矯正を図るのではなく、患者の「あるがまま」を尊重し、何処にもない「固有の生を生きたい」という欲望の自覚に導く事で、自ら価値を生み出していくような人間になることを志向している。

 この視座において、森田と患者は対等な関係なのであり、「医者―患者」という従属関係ではないと考えることも可能であろう。そして現代社会においていかに「神経(質)」的な性格等、「異常または狂気」が低く見られていようとも、また外部が科学的に「これで治る」というような安易な解答を我々に突きつけてこようとも、さらに外部がどのような「かくあるべし」を提示してこようとも、自分らしく現実を突き抜ける方法があるという事を示している。このように森田の思想を再評価する事ができるのではないだろうか。

 ※1 は筆者の感想である