【修士論文(2015年1月)あとがき】 ―梶井基次郎『檸檬』より―


 梶井基次郎の『檸檬』の主人公は、現代社会においては「健康」にも「裕福」 にも「正常」にも分類されないであろう。
貧乏学生で、借金持ち、友人の下宿を泊まり歩いている。神経症で肺病とさ れており、かつアルコール中毒的な描写もある。
 しかし、主人公はその状況を改善しよう躍起になっておらず、少しも気にし ていない。たとえ「憂鬱」で「苦しい」と外部に規定されるような日々を送っ ているとしても、彼自身は自分の生を悪いもの、否定的なものとは思っていな いから、絶望していないのであろう。
 私には、むしろ彼は非常に堂々と日々を送っているように見える。
現代では(当時でも)「多くの問題を抱えて未来もない駄目の男」のレッテ ルを張られるであろう彼は、どうやって自己を肯定しているのだろうか。
 私の解釈では、その理由として彼は、外面(社会的な)の評価よりも、自己 の裡に強固な内面世界を持っているからではないだろうか。
さらに、着目したいのは彼が彼自身の考える「美しいもの≒芸術」と一貫し て関わることで、外的評価に捉われない自己を完成させている。
 彼の意識がその美しさにひたることで、彼は外的な社会規範から離脱し、「純 粋経験」をしているようにすらみえる。
檸檬』が発表されたのは 1924 年(大正 13 年)。人も物も情報も容易に海 を越えることはできなかった時代だ。
彼にとっては、丸善の棚に並ぶ舶来品の数々は、便利、高品質といった日常 的な意味を超えて、非日常的で非現実的な、もしかしたら「神聖な」輝きを放
っていたかもしれない。 しかし彼は、それらを無批判に受け入れ称賛し続ける のではなく、「自己が満足する美」を模索し手に入れる。
模索の過程で、幼児期の思い出、お祭りの夜の出店のような、「身近にあっ て安っぽくて愛おしい、色、光、興奮」に「自分が満足する美」を感じる。
彼が最後に手に入れた「自己が満足する美」は舶来品に比べては「劣る」と 外的な評価を受けかねないタイトルにもあるひとつの檸檬である。
ある日の散歩の途中、主人公は檸檬を買う。 食べるためではなく、檸檬自体の色や形や重さを味わうため、香りや冷たさを 楽しむため、「美しさを感じるため」に手に取ったのだ。
 確かに、主人公は、外的(社会概念的)な世界内での時間を暗く重い気持ち で過ごしている描写もある。
しかし、内的な自己の時間では、主人公は対象としての美に出会い、対象を 内的な世界で消化し美しい時間を生きている。そのとき、自分が生きている外 的(社会概念的な)世界は相対化され、遠く退いていくような不思議な意識状 態を体験する。彼はこの美的体験に、単なるおもしろさ楽しさではなく、それ 以上の価値を見出している。この体験によって、彼は、生と世界を肯定するの である。
檸檬を手に入れた彼は、既存の美しさ(ここでは舶来品)に美を感じなくな り、遂に、「既存の美しさに不満があるなら、自分で創ればいい」というコペ ルニクス的発想の転換をとげる。
この転換は、受動的な芸術鑑賞ではなく、自分が必要とする美しさは、自分 の手で創り出してやればいい、「いま・ここ」でという能動的な創作活動へと 彼を導く。
自らが満足できる美が外的(社会概念的)に相対化し、同時に絶対的な価値 を知らしめる。この行為は、肯定できない・肯定されない生を「生きるに値す るもの」にする方法なのであろう。
 主人公は、自分が没入できない画集なら、巨匠の名画であろうと「自分にと っての価値」はないと考え、画集の外観、表紙や背表紙の色を「ただの着色さ れた物質」として、「自身が考える美しいもの」である「創作物」の「素材」 に利用する。
輸入画集の売り場で、突如、彼はオブジェ制作を始める。画集を重ね、山を 作っては崩し、順番や組み合わせを変えて、また重ねる。そのたびに山の色が 変わる、形が変わる、ボリュームが変わる。やがて出来上がった色彩の山の上 に、彼は「レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」檸檬 をひとつ置く。
 

 このとき彼は、「自分自身」が作り出した「檸檬と画集によるオブジェ」に よって、「不吉なかたまり」を心のなかから消し去って、美を感じることがで きた。
1924年、つまり『檸檬』が発表された年は、アンドレ・ブルトンが「シ ュルレアリスム宣言」を発表した年でもある。レディメイド(既成の物品をそ のまま使って作品化する)やアッサンブラージュ(既成の物品の集積で作品を 作る)は、シュルレアリストやその先駆であるダダイストが好んで用いた技法 だ。インスタレーション(特定の場所に一定期間仮設され、設置空間込みで鑑 賞される作品)は1960年代あるいは1970年代以降に一般化する制作・ 展示方法だが、源流を求めれば、やはりダダにたどり着く。
 しかし、私は、梶井基次郎が流行を意識してこの小説を書いたのではなく、 梶井自身が「いかにして外的に否定された生を肯定するか」ひとつの答えを示 したように思う。
主人公の芸術行為は「自分の満足する美」としてのオブジェを、「そのまま の形でその場に放置する」ことに決めた。
このオブジェに気づく人の心のなかで、いったい何が起こるだろう。主人公 自身が感じているこの美しさ、この絶対的な価値を、その人も感じてくれるだ ろうか。
自分が作ったものが、自分の知らないところで、不特定多数の人々に関わり を持つ。そして関わりは、他の「生を肯定する」重大な関わりになるかもしれ
ない。
 それは私が、絵画療法において、紙面に思いきり「いま・ここ」の自分を表 現することは本人の治療に役立つのみならず、自分を表現し合う創作活動の過 程で、同じ絵画療法の教室メンバーと「生を肯定」し合えるという考えと似て いる。
また、『檸檬』の中の檸檬の存在は、芸術による非対症療法的な心理療法を 描いているように私には感じられる。
以上、外的な評価・圧力に拮抗する手段としての「自己の満足する美」を「創 造」することの意義を、梶井基次郎の『檸檬』への私なりの解釈になぞらえて 結びにかえる。

    ( 2015 年1月 )