Ⅲ.狂気に対する機械論的な治療(私がイタリア精神医療にこだわる礎)

 

 狂気を治療対象としてみる空間ができあがり、治療をする際にどのようなアプローチがとられたのであろうか。この事は、フーコーの『臨床医学の誕生』において明らかにされている。それは、患者に対する医師の「問いかけ」の変化に現れており、それは我々の物事に対する見方全体の変化を表している。フーコーは次のように述べている。

 

「その変化とはごく小さなものではあるが、決定的な意味をもつもので、これによって『どうしたのですか?』という質問の代りに、『どこの工合がわるいのですか?』という別の質問が問われるようになった。後の質問においては、臨床医学の実践と、その叙述全体の原理がみとめられるのである。」

 

この問いかけの変化は18世紀末に起こっている。ここでは、「病を全身的なものとみなす立場」(18世紀に支配的な見方)から人間の身体を「機械のように多くの部品で作られているもの」とみなす立場(18世紀末に生まれた支配的な見方)への移行を表している。

 田村によれば、より大きく捉えるならばこれは、近代社会が人間の認識能力である「理性・悟性・感性」のうち「悟性」を重視した結果であるという。

「感性」は五感による現象界の把握で、例えば「水に手を入れたら冷たいと感じる感覚的な認識」である。そして「悟性」による把握では「これはH2Oだという科学的な認識」となる。また。「理性」は「桐一葉落ちて天下の秋を知る」というような「総合的な直観によって、現象界を一気にトータルに理解すること」であるという。

この三つのうちの一つ、「悟性」が近代社会で優位となったのであるが、それは物事を最小限の単位にまで分けて考える、科学的分析的認識である。例えば、「対象が社会であれば社会をこれ以上わけられない(in-divide)ところの個人(individual)にまで、物質であれば原子や素粒子にまで徹底的に分ける」。しかしこの科学的分析的認識は、「分けられた各部分が、あたかも独立的に存在しうるかのごとく認識してしまう」傾向があり、物事の相互依存関係を見失う危険性が常に伴うという。そして各部分に対する科学的な追及が求められる結果として、「対象の分割が細分化するにつれ、各部分に対応した科学が生まれ、科学が専門分化していく」。

 科学たろうとする医学の領域においてもこの科学的分析的思考が重視され、人間は各臓器、細胞のレベルにまで分割され、各々が正常の範囲内であればそこに「正常」な人間が出来上がると考えるのである。そして「病はみるが病む人をみない」といわれるように、例えば癌という病気に対しては一流の知識と技術を持つが、癌患者の持つ不安、癌との向き合い方や生き方など「生きる人間全体」を考えるという事が忘れ去られてきた。

そして科学たろうとする精神医学においても事態は同様であり、正常とみなされる基準から逸脱した異常者は、医者によって様々な療法、例えば注射、電気ショック、ロボトミー前頭葉の切除)、その他薬物療法などが施されてきた。これは精神医学の歴史が示す通りである。そして現在は序文でみたように、さらに専門分化が進み、脳内伝達物質の過不足と精神疾患が結び付けられる傾向が強くなっているのである。

 

以上のようにフーコーの精神医学に対する視点を検討することで明らかとなったのは次の事である。まず、精神医学や心理学の「知」は、同じ人間に対する抑圧の上になりたっているのではないのか、という問題提起である。そしてその抑圧のもとに、初めて医者は、患者を「異常者」というように客体化することができたのではないのか。

さらに、そのような空間が出来上がった結果、客体化された狂人を科学的・機械論的に見、その故障箇所を探すという一つの思考方法が生まれたのではないのか。

そしてこのフーコーの問題提起は、科学たろうとする精神医学において、精神の病を脳に結び付けて考えるという現代の自明とされる考え方をも揺るがしている、ということである。