What is a reason to be born?

はじめに                山澤 ヨウカ


何故か「ひとの尊厳」の軽視が加速されているように思える現状を感じながら、どう折り合いをつけるのかが解らない自分の想いをとにかく書いてみたかった。

テレビ番組では現実に解決が待たれている問題テーマにしたドラマの増加が目立つ。「貸し渋り銀行員への倍返し」、「失敗しない医師」、「取り調べの可視化の実現」などのテーマが多く、逆にドラマのようにならない今の閉塞感を際立たせているように思う。
子ども・女性・高齢者・障がい者等の疎外が「自然な時間の流れ……生まれ出で、育てられ、成長し、やがては皆老いて死んでゆくという時間の流れ」を否定しているようにみえる風潮に日々違和感を覚えながら、感情のみで何も出来ない自分自身を痛感する。
私が、図々しくもブログを書きたいと強く思った主な動機がみっつある。
ひとつは、知識と体験の相違。
机上の「知識」のみで、自らの脚で外に出て同時代に生きる生身のひとたちと接する「体験」との相違を考察しない学問の場での風潮、知識の味付けにしかならない(博士課程へのお試し?修博合同)ゼミでの議論にも違和感をもっていた。
知識ともに体験を活かす路を探っていた私には、これらの現実は大きなショックであった。

ふたつは、持つ者と持たざる者の行為。
「アタリマエ」に対し間違いを疑わない風潮がある。自分のため他者を犠牲することに痛みを感じない「持つ者」のモラルハザード行為、他方で持つ者を騙しながら利益を享受しようとする「持たざる者」のフリーライダー行為もみられる。この双方の行為の蔓延に、善因善果・悪因悪果はやはり願望や理想で終わるのかという想いがあり、非常に哀しいと感じている。

みっつには、尊敬する師から「描くことのススメ」を拝聴したからだ。
師の御話にQOLの精神を感じた私は、精神科に入院したサバイバーとして描きたくなった。

この現代日本の現状を何と診、何を言えるのか。
また現代(いま)先輩方、仲間たちと議論し、つぶさに紐解いていく時と場所が欲しいと思った。

以上が私のブログ開設の動機である。 
日々の記事を描いてみることにした。
 先ずは、かつての変遷のような記事になるだろうか。