ハイデガーへの和辻の手紙。

意味の伝達

 和辻がハイデガーに指摘したことを踏まえる前に、かつての私に青臭い書き物を掲載したい。

『意味の伝達』

 

言葉の実際での使用に定位して

S学部三年※1

    OY2             

(※1・2、私の、8年以上前の原稿であることをご理解くださいませ。)

 

はじめに

 

 本稿は、倫理学の根本的な問題を扱っている。倫理学に一定の基礎を与えるために、私は、「善」という言葉の使用と、その意味が実際に伝達され、共有されうる状況について、記述することを目標とした。かくして、本稿は、「善」という言葉の意味をめぐる、徹底した内観的考察をめざしているのである。――それ以上のことについては――それが成功しているかについても――、本文を見ていただきたい。

本稿の叙述の形式が、[ウィトゲンシュタイン(以下、L.W.)=1953]のそれに似たものになっていることについて、少し理由を述べておきたい。――本稿はその目的によって、哲学でしばしば用いられるような言葉の非日常的使用を、なるべく排除することに力を注いだのであるが;このような方法は、本稿の大部分で参照した[L.W.=1953]のそれに基づいているのである(本稿がこの立場を徹底できているかについては、甚だ自信が無い)。――本来であれば、論文という観点からすれば、このような書き方は避けるべきであったのだが;私には、L.W.の方向性を出来る限り尊重するように努力しながら、しかも彼の著述の形式と全く異なる形式で議論するということにかんして、見当がつかなかったのである。(2014.11.)

 

1. 「善について考えるとき、我々はいかなる状況に立たされているのか:我々はいかなる意味において善を語ることが出来るのか」という問題について考えよ。また、このような問いが我々にとって意味をもつとすれば、それはいかなる意味においてか?

(これは本稿の根本的な課題であり;そして、おそらくは、倫理学の根本的な問題でもある。)

 

2. 「善」とは、どのような意味をもつ言葉か? [新村=1999]に拠れば;「善は」、第1に、「善良・善行」のように、「正しいこと」、「道徳にかなったこと」を意味する:第2に、「善本・善戦」のように、「すぐれたこと」、「たくみなこと」を意味する:第3に、「善隣・親善」のように、「仲良くすること」を意味する。

我々は、以下の考察において、直接的には第1の意味での善を問題にする。

 

2.1. 以下;私は、日本語における言葉の意味を提示する際、[新村=1999]を多用する。――同書に提示されている言葉の意味は、ある種の典型的なものであると見なすことが出来よう。――しかし;このことは、或る言葉について同書が説明する意味を、常に完全に妥当するものとみなす根拠にはならない。――言葉の実際の使用を問題にする我々は;同書の説明を、直截に取り容れることはしないであろう:我々は、言葉の意味を固定的なものとして「定義」出来るかのように考えてはならないのである。(我々は、常に意味の不当な一般化を斥けなければならない。)

 

2.2. 或る言葉について;「私は、決して『広辞苑』が提示するような意味では、この語を用いてこなかったし;このような意味は認めない。そして実際、そうしてこの語を用いてきて、他者に意味を伝達してきたのだ!」という人にとっては、本稿の方法は甚だ的を射ないものに思われるであろう。――しかし、もしそうであるとすれば;私は他の国語辞典を使えば良かったのか? それとも、全く異なる方法を取れば良かったのか? (――私はこれ以外に、良い方法が思いつかなかった。)

 

3. 「道徳」とは、どのような意味をもつ言葉か? [新村=1999]に拠れば;「道徳」は、「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪の基準として、一般に承認されている規範の総体」である:そして、「法律のような外面的強制力を伴うものではなく、個人の内面的な原理」であるという。

また、「原理」とは、「認識または行為の根本法則」であるという。

 

4. ここで我々は、次のことをさらに問わなければならないであろう:第1に、「一般に承認されている」とはいかなる事態か? 第2に、「個人の内面的な原理」とは何か? 第3に、「認識または行為の根本法則」とは何を意味しているのか?

 

5. さらに、1. に立ち戻って次のことも問わなければならない:第1に、「考える」とはどういうことか? 第2に、「語る」とはどういうことか? これらの動詞は、人間のいかなる活動を意味しているのか? 

(さらには、このようなことを問う以前に、我々は既に考え、語っているのである。我々はいかにしてこれらの活動をするようになるのか?)

 

6. [新村=1999]に拠れば;「考える」とは、「あれこれ思量し、事を明らかにする」あるいは「吟味する」ことであり;「語る」とは、「事柄や考えを言葉で順序立てて相手に伝える」ことである。我々は、考えた内容を意味として相手に伝達するために、語るのである。

しかし、われわれはどのような意味において、考えたり語ったりすることができるのか? われわれが考えたり語ったりするとき、いかなる制約があるのか?

 

7. ここで、「行為」とはどのような意味をもつ言葉か、ということについて考えよ。[新村=1999]に拠れば;「行為」は、「思慮・選択・決心を経て意識的に行われる意思的動作で、善悪の判断の対象となるもの」であるという。また、「動作」とは、「事を行おうとして身体を動かすこと」であるという。

このことから、動作である「語る」は行為であるが、動作ではない「考える」は行為ではない、ということになる。「考える」という事は、動作との必然的な連関をもたない、私の心的な活動なのである。――さらに、このことから、「語る」内容は善悪の判断の対象となるが、「考える」内容は善悪の判断の対象とならない、ということになる。

このような違いから、「語る」ときと「考える」ときでは、その活動がおかれる状況や制約は、異なるであろう。―しかし;こうした意味での両者の差異は、果たして我々にとって重要なものなのか?

 

8. 4. と5. において提示した問題を考察することで、1. にて提示した、「善について考えるとき、我々はいかなる状況に立たされているのか、我々はいかなる意味において善を語ることができるのか」という問題について、我々は一定の見解に到達することができよう。

 

9. それでは、我々はこれらの問題について、いかなる方法によって考えるのか。我々は、我々自身の思考を測定することができるのか? 或いは、ある特定の原理にもとづいて、意味を演繹することができるのか?

まずは示唆的に表現しよう:我々は、これらの問題についての我々の思考を、言葉によって記述する。さらに言えば、これらの問題を言葉によって思考する。――したがって、我々は実際の使用における言葉の意味を離れて、何らかの意味を表わし、伝達することはできないのではないか? ―我々が上述の問題について、何か日常的意味を離れた特殊な言葉を用いることによって意味を与えようとしても、その意味はそのままでは伝達されることはできないであろう。―したがって、我々はできうる限り、日常的な言葉によって記述すべきであるし、仮にそれを離れてしまっても、その言葉を日常的な言葉に「翻訳」する必要があろう。

かくして;言葉の実際の使用とはいかなるものであるか? ―我々はまず、この問題を考えなければならない。

(なお、[新村=1999]に拠れば;「言葉」とは、「ある意味を表すために、口で言ったり字に書いたりするもの」である。)

 

10. 要するに;私はできる限り、「超越論的」とか「弁証法的」とか「主体的真理」とか「実存」とか……、そのような言葉を使って考察を記述したくないのである。

 

11. 「意味」とは、伝達され理解されうるものでなければならない。――では、意味が伝達され理解されるのはどのようなことによってなのか? 我々はしばしば、論理的に説明されうるものを、意味として捉えているのではないか?

 

12. 論理がはたらく範囲である「論理空間」が、「論理定項」と「命題」のみから成るという[L.W.=1933]の見解は、論理のはたらきをよく説明しているように思われる。――この見解の内容は、おおよそ次のように要約できよう:

「論理定項」とは、「∧(かつ)」、「⇒(…ならば)」、「¬(…でない)」などの論理的な「操作」を行うものであり;「命題」(「小澤瑶子は色白である」等)は「名」(「小澤瑶子」、「白」等)のみから成り、「名」は「対象」の「像」である。

「対象」とは実際に在るものであり、「空間、時間、そして色(なんらかの色をもつということ)は対象の形式」(2・0251)である。

「像」はわれわれが「対象」を「描写」したものであり、「描写」は誤って為されることもあるが(「小澤瑶子の身長(実際は157cm)」の「像」として「168cm」を描く、等)、「対象」について「描写」が為されたかぎりにおいて、「像」は「対象」の「内的性質」を捉え、「像」たりえる。「ある対象がその性質をもたないとは考えられないとき、それは内的性質である」(4・123)。

それゆえ「像はひとつの事実」(2・141)であり、「ただ像だけを見ても、その真偽は分からない」(2・224)のである。「描写対象を外から描写する」「描写形式」(2・173)にもとづくかぎり、「像」は論理的に構成される。かくして、「像は論理空間における可能的状況を描写する」(2・202)のである(「小澤瑶子の身長」としての「白」や「55kg」等は「像」ではない)。

 

12.1. 以下;本稿で私が言う論理や論理学は、[L.W.=1933]のそれを指す。

 

13. かくして;ある命題が言われるとき、その命題が言及している全ての対象に関する全ての可能性は提示されているのであり;

 

論理学においては、過程と結果は同等である。(それゆえいかなる驚きも生じない。)[L.W.=1933:6・1261]

 

14. ところで;[L.W.=1953:§60.]は、実際の言語の使用の一場面と、その状況を提示している: 

 

さて私が「私の箒はそこの角に立っている」と言うとき、――この言明は、実は、箒の柄と箒の刷毛についての言明であるのか? ――何れにせよ人はこの言明を、柄の位置と刷毛の位置を述べる言明によって、置き換えることができよう;そしてこの、柄の位置と刷毛の位置を述べる言明は、確かに、初めの「私の箒はそこの角に立っている」という言明の、さらに分析された形なのである。……―しかし、そうだからといって、もしわれわれが或る人に、「その場合君は、本当は、柄はそこに在り、刷毛もそこに在り、そして柄は刷毛に刺さっている、ということを意味しているのか?」と問うたとすれば、おそらくその人は言うであろう:私は、特に箒の柄や刷毛について、全く考えてはいなかった。そしてこれは、正しい答えなのである;何故ならその人は、特に箒の柄や刷毛について、語ろうとはしていなかったのであるから。君が或る人に――「私にあの箒を持って来て」と言う代わりに、――「私にあの箒の柄とそれが刺さっている刷毛を持って来て」と言うとすれば、これに対する彼の答えは、「君はあの箒が欲しいのですか? そしてそうなら、何故君はその事をそのように奇妙に表現するのですか?」ではないであろうか?

15. ここで、「君」が「或る人」に「私にあの箒を持って来て」と言うとき、「君」が意味することは、「或る人」に完全に伝達されるであろう。しかし「君」が「或る人」に、「私にあの箒の柄とそれが刺さっている刷毛を持って来て」という分析された言明をする場合には、どうであろうか? ―人はこのようなとき、2つの表現のうちのどちらかが正しいのであり;つまり意味をまともに伝達するのは、どちらかのみであり;したがって、どちらかは誤りである、と言いたくなるかも知れない。(つまり、分析された言明は誤りである、と言いたくなるかも知れない。)

 

16. しかし、分析された言明によっても、「君」は「或る人」にその意味を、ある観点では、伝達できていると言えるのである―というのは;「或る人」が「君」の言明に従って、箒の柄と箒の刷毛を持って来るには;「或る人」は、刷毛に刺さっている柄と、柄が刺さっている刷毛を、持って来るのであり;そして「君」は例えば、「柄と刷毛を分離して持って来て」とは指示していないのであるから、「或る人」はそれをおそらくは現在ある状態のまま持って来るのであるから;「或る人」は、「君」の言明の意味を厳密に把握するならば、柄と刷毛の結合である箒を持って来ることになるからである。したがって、「君」の言明に対して、「或る人」が「君はあの箒が欲しいのですか? そしてそうなら、何故君はその事をそのように奇妙に表現するのですか?」と言おうとも、「君」は論理的に新たな内容を付け加えることなく、例えば次のように言えば良いのである:「いいから、持ってきて!」――そうすれば、或る人は「君」が意味した内容のみに従って、「君」の欲するようにするであろう。

 (ここで;「君」が「いいから、持ってきて」と言うのに対し、「或る人」が「何だって!? どうしてそのような不遜な言い方をするのだ!私は君の命令になど従う気は無い!」などと言い返す;というような場合の想定は本当にどうでも良いように思われるかもしれない。――しかし、言葉の実際の使用という観点からは、このような想定は、非常に重要なことを示唆するのである。)

 

 17. だが、「或る人」は;例えば[L.W.=1953:§60.]が表現するように言い;まず戸惑いや疑問を示す振舞をするであろう。そしてその後で、例えば口を尖らしたり首を傾げたりしながら、君が本来意味したことを結果として実行するか;或いは12. で示したような過程を経て、実行するか、であろう。――この「或る人」の戸惑いや疑問の反応は、「君」の言明に対する驚きを示しているのである:では、彼の驚きは何を示しているのか? 

 

18. 注意せよ:「私にあの箒を持って来て」という言明も、私にあの箒の柄とそれが刺さっている刷毛を持って来て」という分析された言明も、論理学的には等しい意味をもっている。

 

19. しかし、13. で提示する論理学的な帰結とは異なり、実際の使用においては、論理学的に等しい意味をもつ二つの言明において;片方は「或る人」に驚きを生じさせ、もう片方は、生じさせなかったのである。―この相違をもたらすものは何か?

(ここで、我々は、ただちに論理学的な帰結に誤りがあると考えてはならない。なぜなら、二つの言明は、12. に提示したような論理によって、よく分析されることが出来るのであるから。)

 

20. [L.W.=1933:5・5563]は言う:「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで論理的に完全に秩序づけられている」。――つまり;「論理的に完全に秩序づけられている」のは、「われわれの日常言語のすべての命題」なのである。――したがって、[L.W.=1933]が言う論理は;「空間、時間、そして色(なんらかの色をもつということ)」を持つ、対象にかんする言明のみに;すなわち対象のみに、適用されるもの、なのである。

 

21. [L.W.=1933]はさらに;「世界」と論理がただちに対応関係にあり;有意味な「語られうる」ことは、「世界」における「事実」や「事態」のみである;という見解を提示する。[L.W.=1933]はおおよそ、次のように言う:

「世界は事実の総体」(1・1)であるが、これは「成立している事態の総体」(2・04)と言い換えられる。「事態」とは論理的な可能性のことである。そして「事態とは諸対象(もの)の結合」(2・01)であり、「対象の配列が事態を構成する」。

さらに、「命題の総体が言語」(4・001)であり、「命題は現実の像」(4・01)、すなわち論理的に可能な内容である。ところで「命題」や「像」が論理的であるということは、その「意味の現実との一致・不一致」(2・222)によって、真偽が明確に判断できるということである。

したがって、[L.W.=1933]は次のようにいう。

 

命題は、あとはイエスかノーかを確かめればよいというところまで、現実を確定しているのでなければならない。

……命題は、論理的足場を頼りに世界を構築する。そしてそれゆえ、その命題において、それが真であるならばそこから論理的に何が言えるのかもまた、すべて見てとることができる。命題から帰結を引くためには、その命題が偽であってもかまわない。(4・023)

 

論理は世界を満たす。世界は論理の限界でもある。(5・61)

 

かくして、「語られうること」の可能性の全てである論理は、同時に「世界」の可能性の全てでもある。そして、それ以外の一切の言明は、あからさまに「ナンセンス」なのである。

 

22. 我々は「世界」をあくまで、対象についての事実の総体として考える限りでは、この主張を承認することができるように思われる。しかし、我々にとっての意味は、このような「世界」についての意味のみに限られるのか? ――次の[L.W.=1953:§27.]の主張を見よ!

 

「我々は様々なものに名前をつける。そうすれば我々は、それらについて語ることが出来るし、話の中で、それらに言及する事が出来る。」――それではあたかも、「名前をつける」という行為には、我々がこれから為すことが既に与えられているかの如く、である。あたかも、「ものについて語る」と言われる事が、我々がこれから為す事としてただ一つ存在するかの如く、である。ところが実は我々は、命題でもって、全く種々様々な事を為すのである。ちなみに、全く異なった機能を有する様々な叫びについてだけでも、考えてみよ。

水!

先を続けなさい!

ああ!

助けて!

よろしい!

だめだ!

これらの例を見ても君はやはり、これらの語は「対象についての名前」であると言いたいのか?

 

我々にとっての意味とは、論理学的な意味だけには限られないのではないか? そうであるとすれば、[L.W.=1933]が言うような論理は、たんなる欠陥品なのか?

 

23. また、[和辻=1937(1962):42頁]は次のように言う:

 

知人が出逢えば天候の挨拶をする。それは人間の常識である。彼らは何ゆえに天候を云為するかを反省しはしない。しかし天候を云為した時に彼らは天候についての認識にかかわっていのではなくして相互の間柄がそこに表現せられたのであることを、すなわちそれが挨拶であることを理解している。そうでなければその人は非常識である。(下線は筆者)

 

24. しかし;我々が或る人に何かを説明しようとするときに、「論理を用いず説明せよ!」と言われたとしよう:我々は多くの場合、途方に暮れるのではないか? また、論理に基づいた説明を或る人が全く理解しないとき、やはり我々は多くの場合、途方に暮れるのではないか?

試しに;12. で示したような「論理定項」を一切使わず、「サブプライム・ショック」が何故起こったかについて、解説せよ:そしてその事を予め知っていない或る人に、理解させよ!もしくは;乳飲み子にピタゴラスの定理を理解させよ!

 

25. もし「我々は論理など全く必要としない!」などと考えるとすれば、それは全く的外れなことである。――論理は、我々にとって、或る重要な役割を担っているのである。論理は説明の範型であり、意味の範型なのである。だから、[L.W.=1953:§89.]は次のように言う:

 

…論理学には、或る特殊な深さ――或る一般的な意味――が、当然の事として与えられているように思われる…。論理学は全ての学問の基礎に横たわっているように、思われるのである。――何故なら、論理的考察は万物の本質を究明するのであるから。論理学は、物事をその基礎に於いて見ようとするのであり、個々の具体的な出来事が事実としてどうであるかについて、気にかけてはならないのである。――論理学は、自然現象に於ける諸事実に対する関心からも、それらの間の因果関係を把握する必要性からも、生まれるのではない。論理学は、経験され得る全ての事の基礎或いは本質を理解せんとする努力から、生まれるのである。(下線は筆者)

 

――このように言うとき、我々はただちに次のように言えよう:

 

…「言語」、「経験」、「世界」といった語は、もしそれらが何らかの使用を有するとすれば、「机」、「電灯」、「ドア」といった語のような、卑俗な使用を有さねばならないのである。[L.W.=1953:§97.]

26. ここで我々は、次の[L.W.=1953:§99.]の問いについて考えよう:

 

人は言うかもしれない:命題の意味は、勿論、あれやこれやを未確定の儘にしておく事が出来る。しかし、それでも命題は、或る確定した意味を持っていなくてはならない。未確定の意味――本来それは全く意味ではないであろう。――これは丁度、未確定の境界――本来それは全く境界ではない、という事と似ている。ここで人は、例えばこう考える:もし私が「私はその人を部屋にしっかりと閉じ込めた――ただドアが一つ開けたままになっている」と言えば、――私は彼を全く閉じ込めたのではなかった。彼はただ、見かけ上、閉じ込められているだけなのである。ここで人は、次のように言う傾向があろう:「君はそれ故、それによって全く何もした事にはならない。」穴のある囲い込みは、全く囲い込みではないも同然なのである。――しかし、これは本当であろうか?

 

――つまり;12. で提示したような命題が、「事態」にかんする言明であれば、その命題が言い表す可能性の範囲における、どのような内容が事実となるかは、未確定である。しかし、「閉じ込める」という「名」には、「開いている」という意味は含まれておらず;したがって「閉じ込める」という言葉が言い表す事態には、「開いている」という事態は含まれていないのである。そうでないとすれば、「閉じ込める」という言葉はその確定された意味を持たないことになり、全く意味を持たないことになってしまう、ということなのである。――しかし、これは本当であろうか?

 

27. 論理学的には;「私はその人を部屋にしっかりと閉じ込めた」と、それに続く「ただドアが一つ開けたままになっている」という二つの命題は、矛盾しており;結果として「私」の言明は無意味である。そして、論理学的には;「私」の行為は、「その人」を閉じ込めたか、閉じ込めなかったかが問題となるであろう。――ここで「ドアが一つ開けたままになっている」というのが事実であれば;「彼はその人を部屋に閉じ込めた」という命題は事実に対して「偽」であるから、その否定である「彼はその人を部屋に閉じ込めなかった」が「真」であり;彼の行為はこのように説明されるであろう。――そして、それは論理学が目指す意味において、成功しているのである!

(我々の全ての行為は、論理学的に説明されうるであろう。しかもその説明は、ここで示したように、我々の日常言語(日本語・英語・ドイツ語など)によって、されうるであろう。)

 

28. かくして;我々は、20. で提示した[L.W.=1933:5・5563]の主張を、承認してよいのである。

 

29. しかし;我々は「私」の言明が提示する内容について、次のように言えるのではないか? ――「なるほど、彼の行為はその意図に対して失敗してはいる。しかし彼はその人を部屋にしっかりと閉じ込めたつもりだったのではないか? そして閉じ込めたと言った正に直後に、彼はそれが不十分だったことに気がついたのではないか?」(――結果がそうなっていないとは言え、彼がそうしたつもりだった、ということが我々にとって一つの意味ではないか?)

――こう言い得るとすれば、「私」が「閉じ込めた」というとき、それは論理学的には意味を持たないにもかかわらず、そうでない何らかの形で、意味を持っていることになるのである!――一方では、事実に対してであり;他方では、論理規則に対して矛盾を犯す言明が、我々にとって何らかの意味を持つ、ということはどういうことか? ――それは、我々の実際の言葉の使用が、少なくとも論理そのものではない何ものかにも規定されている、ということではないか?

(そして、17. で提示した「驚き」の場合や、23. で提示した「挨拶」の場合は、実際の言葉の使用と、[L.W.=1933]が提示する純粋な論理との、或る意味での不協和を示しているのではないか?)

 

30. ところで;「私はその人を部屋にしっかりと閉じ込めた――ただドアが一つ開けたままになっている」という矛盾した言明そのものは、やはり事実である。――したがって、この「私」の言明を論理学的に説明すれば、このようになろう:「彼は「私はその人を部屋にしっかりと閉じ込めた――ただドアが一つ開けたままになっている」という、矛盾した言明をした。」

 

31. 論理においては、「つもり」は事実‐事態の相へと、言わば翻訳され;解消されてしまう。しかし論理は、そうすることによって――、我々が「つもり」の表れとして把握しうる物事を、――論理自身の仕方によって、説明するのである。これは物事の一つの意味である。――しかし;われわれは失敗した行為から、「つもり」を読み取ることができるのではないか? そして、これも一つの意味なのではないか?

そうであるとすれば;ここに、論理と、論理そのものではない何ものかとの、言わば「二律背反」が見出されると言えよう。――これは、どちらがあらゆる意味の根底にあるのか、という「二律背反」である。

 

32. 論理は、「つもり」を対象にかんする事態ではないとして、消し去ってしまう。ここに、ある種の意味の喪失が起こっているのではないか? ――それは論理にとっては主観的な言明であって、もとより意味ではないであろう。――しかし;論理学的な一般的意味への要求のために;このような主観的な意味をいつも否定することは、不自然なのではないか? ――そのようなことをするのは、ある種の空虚さへと向かっていくのではないか?

 

我々が日常言語を詳細に考察すればするほど、日常言語と我々の要求の間の抗争は、ますます強くなる。(論理の結晶のような純粋さは、確かに探求の結果私に与えられたものではなく、或る要求なのである。)この抗争は耐え難くなり;今やその要求は、理想化されて、空虚なものになってゆくように思われる。――我々は、摩擦のないツルツルした氷の上におり、したがって条件は、或る意味では、理想的なのであるが、しかし我々は当にその事の故に、前に進む事も出来ないのである。しかし我々は前に進みたい;そしてそのときは、我々には摩擦が必要なのである。かくして、私は言いたい:ザラザラした大地に戻れ![L.W.=1953:§107.]

 

33. それでは、我々は、「つもり」の相;すなわち、論理そのものではない何ものかの相を、真の意味の相として、考えれば良いのか?

 

――しかしそうであるとすると、論理はどうなるのか? この場合、論理の厳格さは崩壊するように思われる。しかし、論理の厳格さが崩壊すれば、それによって論理が完全に消えることはないのか? ――しからば一体、如何にして論理はその厳格さを失うことが出来るのか? 勿論、論理がその厳格さを失うことが出来るのは、人が論理からその厳格さを幾ばくか割り引く事によって、ではない。――論理は結晶のように純粋である、という予見は、我々が我々の全考察を180度転換する事によってのみ、清算され得るのである。[L.W.=1953:§108.]

 

――勿論;28. で述べたように、論理が完全に消える、ということは無い。そして、おそらくは;31. で述べたように、論理は我々の行為を全て、説明できるのである。――だからここでの転換とは、反省の立場から、実際の言語の使用の立場への転換を意味するのである。

 

34. この転換は、31. の「二律背反」で言えば;論理の立場から、論理そのものでない何ものかの立場へと移ることを意味する。つまり、この転換は、あらゆる意味の根底にかんするものであり;論理そのものでない何ものかを土台そして、その上での具体的な言葉の使用において、論理が入り込むことを拒むものではない。――こう考えなければ、24. で見たように;明らかに不自然である。――我々の言語は、[L.W.=1953:§18.]が喩えて言うようなあり方をしているのである:

 

……我々の言語が完全であるのかどうか;我々の言語は、化学の記号法や微積分の記号法に入り込まれる以前でも、完全であったのかどうか…;…これらの記号法は、我々のもともとの言語を旧市街とすれば、その、言わば郊外の新市街である…。(そして、どれくらい多くの家や通りがあれば、街は街であり始めるのか?)人は、我々のもともとの言語を旧市街として見る事が出来る:小道の迷路と広場、古い家と新しい家、そして新しい時代に建増しされた家、これら旧市街が、真っ直ぐで規則的な通りに一様な家が立ち並ぶ多くの新市街によって、囲まれているのである。

 

――この喩えに沿って、より正確に言えば;今や旧市街も所々で再開発が進んでおり、新市街風の家と旧市街風の家はモザイクの様に入り混じって立ち並び、どこからがどこまでが旧市街であり新市街であるのか;きわめて区別がつきづらくなっているのである。

 

35. ・・・そうだ:我々が実際に使用するときには、[L.W.=1953:§43.]が言うように;或る語の「意味(Bedeutung)」とは――全ての場合ではないにしても――大多数の場合において、それは実際のその語の使用(Gebrauch)なのではないか?!

我々は、或る語の意味を考えるとき、――分析などの手法によって反省し;或いは「定義」しようとするのではなく、――まずその語が実際にいかに使用されるかを考えなければならないのではないか?! ([新村=1999]によれば;「定義」とは「ある概念の内包を構成する本質的属性を明らかにし他の概念から区別すること」である。)

 

36. A氏は言った:「別に正解というものは無いのだけど、板・釘・丸太・鋸の中で仲間はずれのものは何だと思う?」――私とB氏は「釘」と答えた。A氏は言った:「君たちは前近代人か!? 普通、この中で丸太だけが大工道具ではない、と答えないか?」――私とB氏は答えた:「板・釘・丸太・鋸の中で、今あるもの同士で使えないのは釘だけです。」

――大工道具という概念の下に対象を包摂させなかった私とB氏の考えは前近代的なのか? A氏はログハウスにおいて丸太が建材として使用されるということに考えが到らなかったのか? しかしA氏が意味した丸太は、両端がささくれ立ったような丸太だったのではないか? A氏の問いに、論理的正解なるものは存在するのか? それが存在しないということは問いとしてナンセンスなのか? しかし2つの答えは、問いへの応答として意味を持っているのではないか? A氏が言う「普通」とは、何を意味しているのか? 私とB氏の見解が一致したということは何を意味しているのか?

 

37. 一つの物事において、意味はいくつも存在しうる。――例えば;我々は、26. で提示した「私はその人を部屋にしっかりと閉じ込めた――ただドアが一つ開けたままになっている」という「私」の言明に対して、彼の言明の内容を信用するのであれば;おそらくは、29. のように反応することになろう。――しかし、例えば我々が、彼が;よく嘘をついていたり;或いは彼は怠け者でしかも言い訳ばかりしていたり;或いは彼が閉じ込められる人に同情しているなどと考えるならば、我々はそうは言わないであろう。――例えば、「彼はまず嘘の言い訳をした:しかしその正に直後に罪悪感にかられてか、嘘が後で発覚することを恐れて、真実を告げたのだ。」などと言うのではないか?

 

38. 或る人が何かを言い――また別の或る人がそれに反応し、何かを言う:このやり取りにおいて、実際の言葉の使用における意味が生まれていく。――そして、それぞれの言明の意味は、各々の人間がもつ、意味の受け取り方によって、異なってくるのではないか?

(例えば;26.の「私」の言明に対して、A氏が彼と知り合って間もない頃は29.のように反応したかもしれないが;彼と付き合ううちに彼が嘘つきであると思うに至ったならば、A氏は37.のように反応するかもしれない。)

 

39. 或る人の意味の受け取り方を形づくるのは、彼の経験である。

 

40. 嘘をよくつくA氏と付き合いが長くなったB氏は、A氏がB氏の言うことを簡単には信じてくれない、と考えてA氏に対して言明をするようになるかもしれない。――例えば;B氏は事あるごとに自分の言明を本当であると強調する、等。そのとき、貸金を返して欲しいA氏と;本当に借金を返すつもりであり、その目処もついているB氏は、次のような会話をするかもしれない:――A氏は言う:「3ヶ月前に貸したお金、いい加減に返してくれないかな。困るんだよ。」――B氏は言う:「来月に絶対に返すから、絶対!給料が前借できることになったんだ。本当だよ、命を賭けてもいい!」――A氏:「君はそういえば僕がまた見逃すとでも思っているのか?」――B氏:「そうじゃないって!本当に返すって言っているのに!」――A氏:「もういいから、今から貸金屋に行くか君の車でも売りに行ってさっさと返してくれ!一緒に行ってやるから!」――B氏:「・・・分かったよ。悪かった。」

 

41. 言葉は、言葉同士の実際の使用の連関によって、数々の規則をかたちづくっており;そして言葉の意味は、この規則の共有によって、正しく伝達されることができるようなのである。――このような意味での規則に我々が実際に従い、言葉を使用することを[L.W=1953]は「言語ゲームSprachspiel)」と呼んだ。「或る語の意味とは、言語ゲームに於けるその語の使用」(§43.)であるという。――だから、[――:§241.]は次のように言う: 

 

…正誤は、人間が言う事である;そして、言語ゲームに於いて人間は一致する。この事は、言語ゲームにおいて人間は、意見が一致するという事ではなく、生活の形式が一致するという事なのである。

 

――この「生活の形式」の内容は「定義」されない。しかしそれは実際の使用において他者と共有され、意味を伝達するから、「規則」なのである。

 

42. 言葉の意味は、ある規則に従うことで与えられている。この規則が私の生活の形式であり;他者の生活の形式なのである。――このような意味で、次のことが言えよう:論理のような普遍的な規則というものを考えるとき、我々は少なくとも、それが我々の言葉の実際の使用のすべてを底で支えている、というべきではない。――だから、[L.W.=1953:§292.]は次のように言う:

 

君は君の言葉を事実から読み取るのだ;より具体的に言えば、君は事実を規則に従って言葉に写し取るのだ、などといつも考えてはならない。何故なら、たとえそうであっても君は、解釈が尽きたような特別な場合には、如何なる導きも無しに規則の使用を行わねばならないのであるから。

 

――29. 30. 31. 32. の場合で言えば;我々は「私」の言明に対して、「つもり」という意味における解釈を、論理学的な根拠なしに持ち出したのであった。――また、40. の場合で言えば;A氏には、B氏がもはやいかなる可能性を提示しようとも、B氏を信用する余地はなかったのである。――このような反応は、これまでの様々なやり取りの中で形づくられたものであり;その過程は、[L.W.=1933]が主張するような事実や事態に関する論理では、捉えられないのである。

 

43. それゆえに;[L.W.=1953]は次のように言う:

 

或る規則に従う、という事は、或る命令に従う、という事に似ている。人は、命令に従うように、訓練され、その結果命令に或る一定の仕方で反応するようになるのである。さてしかし、命令と訓練に対し、或る人はこう反応し、他の人は別様に反応するとすれば、どうであろう? この場合、誰が正しいのであろうか?(§206.)

 

――無論、誰が正しいとは言えないのである。

 

私が規則に従うとき、私は選択をしない。

私は規則に盲目的に従うのである。(§219.)

 

――このような意味で;規則に従うということは、「人類共通の行動様式」(§206.)なのである。

 

44. 我々は、6. において;我々はどのような意味において考えたり語ったり出来るのかを、問題にしたのであった。――我々が、実際の言葉の使用において何かを語るとき、言葉によってその意味を相手に伝達する。したがって、語ることは言語ゲームをすること、なのである。

 

45. 私が何かを考えるとき、それは自らに語るということを意味するのではないか? 確かに、7. で述べたように、語ることは、その語の意味としては行為である。――しかし私は、音声は伴わないが、あたかも自らに語るかのように、物事を考えているのではないか? [L.W.=1953:§329.]は次のように言う:

 

私が言葉を用いながら考えるとき、私の心に、その言語表現が寄り添って、更に「意味」なるものが浮かぶわけではない。私が言葉を用いながら考えるときには、言語自身が思考の賦形剤(表現手段)なのである。

 

46. しかし私が何かを考えるということは、必ずしも45. で提示したような仕方によって、ではないのである。[L.W.=1953:§330.]はこのことを次のように言う:

 

「このペン先は、確かにすり減って丸くなっている。しかしまあ、何とかなる。」この文章を、先ず、考えながら;次には、考えないで、読め。次には、そこで言われている事のみを、しかし言葉無しに、考えよ。――さてしかし私は、或る文章を書きながら、同時に私のペン先を顔を歪めながら吟味すること――これは一種の思考である――が出来よう。――そして諦めのしぐさをしながら、その先を続けて書く事があろう。……ここでそれらの思考を形造っているものは、考えながら語られるべき言葉に随伴しなくてはならない過程、ではない。

 

47. 45. や46. のような仕方で提示される「考える」ということの意味は、我々にとってどのような意味の区別をもたらすのだろうか? (この問いに我々の答えを与えることで、我々は7. で提示した問いに答えることが出来よう。)――ここで我々は、[L.W.=1953:§347.]に注目すべきである:

 

…私が私自身の場合からのみ「自らに語る」という事を知るのであれば、私は、私がそう呼ぶものについてのみ、知っているのであって、他人がそう呼ぶものについては、知らないのである。

 

48. 独りで「だめだ!これはやはりこっちだ!」などとつぶやき、そして本棚を引きずりながら、部屋の模様替えをしている人について考えよ:我々は彼の振舞を見て、「彼は本棚を置く位置について、彼自らに語りながら考えている」と言うことができるのではないか? ――自らに語るという活動が観察されるのは、このような特殊な場合のみ、なのである。

 

49. 私は、先ほど満員電車でずっと窓の外を見ていた女性について、「彼女は彼女自身に語っていた」とは言わない。――自らに語るというのは言わば私的な事柄なのである。(同様に、46. で提示したように、自らに語ること無しに思考する場合も、私的な事柄にすぎない。これらはどちらも、7. で述べたように、私の心的な活動なのである。)

――しかしこのようなことは、1. で提示した我々の問題にとって、少なくとも当面は考慮するに値しないこと、なのである。

 

50. 我々は、「私が」考えることを問題としているのではない:「我々が」考えることを問題としているのである。

 

…「思考は非身体的過程である」と言う事によって、「考える」という語の文法を、例えば、「食べる」という語の文法から区別しようとするならば、人はそのように言う事も出来るであろう。だがしかし、そのように言う事によってもたらされる意味の区別は、非常に少ないと思われる。[L.W.=1953:§339.]

 

51. しかし、そうであるとすれば、我々は「私は自らに語っている」ということは、完全にどうでも良いことなのか? まずは、[L.W.=1953:§357.]に注目して欲しい:

 

私が「私は自らに語っている」と言うのは、私の振舞を観察して、ではない。しかし、私が自らに語っている、ということが意味を持つのは、私がそのように振舞うからである。――それ故、私は自らに語っている、ということが意味を持つのは、私がそう思っているから、ではないのである。

 

――ここで重要なのは;私の心的な活動が存在するということが、他者に伝達される意味を持ちうるのは、私が実際にそのように振舞うことを他者が見てとることによってである;という点なのである。

 

52. 意味は、振舞すなわち行為を介してしか、問題にされえない。(かくして、我々が考えることを問題にするとき、それは行為するための思考のみを問題にするのである。)

このとき;「考える」という言葉の意味は、振舞すなわち行為一般の意味と、一致するであろう。(当然、行為には語ることも含まれる。)

 

53. 実際の行為として語ることと、実際の行為との連関において問題にされうる限りでの、考えることとは、言語ゲームであり;我々はその仕方を、教育や実際の使用等の訓練を経て、学んでいくよりないのである。――そしてまた;このことは、およそ意味をもった振舞の全てについて、同様なのである。

 

乳飲み子の笑いは偽りではない、という我々の想定は、おそらく早計ではないのか? ――そして、我々の想定は如何なる経験に基づいているのか?

(嘘をつく、ということは一つの言語ゲームである。それは、他の全ての言語ゲームがそうであるように、学ばれなくてはならない。)[L.W.=1953:§249.]

 

54. A氏は自分の悩みについて言った:「僕は過去にある仕事を買って出ました。その動機は、自分をよく見せたいということでした。僕はそのような内心を偽って、仕事を買って出たのです。旧友たちは僕によく協力してくれたのですが、僕はそのような彼らの気持ちを裏切り続けていたのです。僕はその頃、いつもそのような生き方をしていました。八方美人でした。僕は彼らに謝ってこのことを清算しなければ、これから前向きに人に接していけないのです。」――B氏は言った:「旧友の問題とこれからのことは切り離して考えれば別にいいじゃないか。そっちはそっちで謝れば良いだけの話じゃないか。」――A氏:「いいえ、それでは駄目なのです。」――B氏:「人間なんて皆内心はドロドロしているって!八方美人でもいいじゃないか!」――A氏:「・・・そうかも知れないですけど・・・それでも駄目なのです。」――私:「僕もBさんと同じ意見だけど。Aが今ここで振舞うのと、旧友の前で振舞うのと、親の前で振舞うのと、その他の知り合いの前で振舞うのと・・・振舞い方は相手によって全部違うでしょう? それは誰だって同じじゃないの? Aが言う八方美人っていうのは、ごくふつうのことじゃないの? それなら、Aが言う「内心を偽る」ということは、少なからず皆やっていることじゃないの?」――A氏:「そうですけど・・・。」――私:「あと、その旧友たちとの人間関係が、Aにとって今、そんなに大きいものなの? 毎週、毎日のように会って話すとか。」――A氏:「・・・旧友たちとはたまに会うくらいです。でも、彼らは今でもあの頃と同じような親しい態度で僕に接してくるのです。それが申し訳なくて仕方が無いのです。」――B氏:「それなら、すぐ謝れば良いじゃないか。」――A氏:「・・・旧友たちが許してくれるか、不安で仕方が無いのです。」――私:「Aはその仕事をしっかりとやったわけでしょう?」――A氏:「・・・はい。」――私:「旧友たちはAが内心を偽って仕事をしていたって知っているの?」――A氏:「・・・いいえ、知らないと思います。」――私:「それなら一体どうして謝らなければならないの? Aは自身が、実際に謝るべき振舞いをしていなかったと考えているのに。それに、もしAが旧友たちに謝ったとしたら、彼らがAを許さないということは無いと思うのだけど。君は別に、彼らに対する悪意があったというわけでは無いのだから。」――A氏:「・・・そうかも知れないですけど、とにかく、そうしないと駄目だし、許してくれるのかも、不安なのです。」――私:「そうか・・・。」――B氏:「本当に理解できないのだけど・・・。」

――ここで、私とB氏の主張がある意味で一致したのはどうしてか? B氏がA氏の主張について理解できない、と言ったのはどうしてか? ――私とB氏は他者にとって、A氏がどのように振舞うかが問題である、と主張したのである。この場合、実際の振舞以外のものはA氏の心的な活動の過程にすぎず;他者はA氏の振舞に反応することは出来るが、A氏の心的な活動の過程には反応することができないのであるから。この点において、私とB氏の主張が一致したのであり;また、これ以上のこと、すなわちA氏の心的な過程については、私とB氏にとっては問題にし得ないのである。旧友たちが、A氏に対して親しい態度で振舞うというのは、A氏の旧友たちに対する振舞に対する反応なのである。――A氏はこのような、私とB氏の主張を承認しながらも、それに頷かなかったのである!――A氏は、何に基づいてこのような態度を表明したのか?

 

55. 54. で私とB氏の主張に頷かなかったA氏にとって、問題は外的な振舞ということではなかった。それは正に、心的な過程にかんする問題である。――ここで「信念」という言葉について考えよ。[新村=1999]に拠れば;「信念」という言葉は、「ある教理や思想などを、かたく信じて動かない心」を意味する。――ここで、A氏の心的な過程を規定しているものが、何であるのか――宗教上の「教理」なのか、体系的な或る「思想」なのか、あるいはその他のものなのか――:そのようなことは問題にならない。ここで重要なのは;A氏が何らかの心的な根拠、すなわち信念によって、54. のような態度を表明した、という点である。この何らかの心的な根拠が、我々が4. で問題にした「個人の内面的な原理」に当たるもの、なのである。

 

56. [新村=1999]に拠れば;「信じる」という言葉は、「まことと思う」ことを意味する。したがって;「信じる」ということは、思考すなわち「考える」ということの中の或る側面である、と言うことが出来よう。――この意味で、「信じる」という言葉の文法は、「考える」という言葉の文法に似ている。したがって;我々が信じることを問題にするにしても、それは行為にあらわれる限りでのみ、問題にするのである。

かくして;我々は信念、すなわち「個人の内面的な原理」についても、行為にあらわれる限りでのみ、問題にするのである。――さらに、3.4.を見よ:我々は「原理」に「認識または行為の根本法則」という意味を提示し;これは何を意味するのかを問うた。いま、我々はこれにどう答えられるか? ――我々は答える:それは言語ゲームである!

 

57. ここで、4. で問題にした「一般に承認されている」ということについて考えよ。ここでは、「一般」という言葉と、「承認する」という言葉が問題になっている。――まず、「承認する」という言葉に注目せよ。この動詞の元になっている「承認」という言葉は、[新村=1999]に拠れば;「正当または事実・真実と認めること」を意味する。

また、「認める」という言葉は、第1に「よく気をつけてみる」こと;第2に「目にとめる」こと;第3に「見て判断する」こと:第4に「見てよしとする」、「かまわないとして許す」あるいは「受け入れる」こと;第5に「みどころがあると考える」こと――これらのことを意味する。

ここでは、我々は「承認」という言葉に含まれている限りでの、「認める」という言葉を問題にしており;したがって、我々は「認める」という言葉の意味を、「見て判断し、かまわないとして許す(あるいは、受け入れる)」こととして捉えることができよう。

 

58. さらに、「見る」という言葉の意味が広義であることに注目せよ!――[新村=1999]に拠れば;「見る」という言葉は、第1に「目によって認識する」という意味をもつとともに;第2に「判断する」という意味をもち;さらに「物事を調べ行う」という意味をもつのである。

これらの意味における実際の表現について考えよ:第1の意味については、「彼がそこにいるのを見る」、「赤い花が咲いているのを見る」等があり;第2の意味については、「人を見る」、「甘く見る」、「手相を見る」等があり;第3の意味については、「勉強を見てやる」、「付添が病人を見る(看る)」等がある。

ここで、我々が第2、第3の意味で、見ると言うとき、見るということにかかわっている我々の感覚が、視覚だけではないということに注意せよ!――例えば;「人を見る」というときには、その人の容貌だけでなく、彼の言動や行為などを総じて、我々は判断するであろうし;「付添が病人を見る」というときには、付添は病人の額に手を当てて、病人の体温の様子を調べたりすることも含まれるであろう。

我々が、見る対象として考えているのは、言動や身体動作を含んだ行為一般なのであるから;我々は「見る」という言葉の意味を、ここでは「情報に基づいて判断する(またその判断を基に行為する)」こととして捉えることができよう。

 

59. [新村=1999]に拠れば;「判断」という言葉は、「真偽・善悪・美醜などを考え定めること」や、「ある物事について自分の考えをこうだときめること」を意味する(下線は筆者)。――したがって;我々は、「判断する」という言葉の文法は、「考える」という言葉の文法に含まれる、と指摘することが出来よう。――そしてこうであるとすれば;我々は52.の見解にしたがって、我々の考察においては、「判断する」という言葉の意味は、振舞すなわち行為一般の意味に、含まれることになる。

 

60. 次に、「一般」という言葉について考えよ。[新村=1999]に拠れば;「一般」という言葉の意味は、「広く認められ成り立つこと」や「ごく当たり前であること」であり;この言葉は、「すべての場合に対して成り立つ場合にも、少数を除いて成り立つ場合にも使う」という。

ここで、「成り立つ」という言葉の意味は、[新村=1999]に拠れば;「出来上がる」ことである。――「出来上がる」という言葉の使用を考えよ:我々は「作っているものが今出来上がる」とか、「議論と検討の結果、草案の形が出来上がる」等と言うであろう。これらの使用によって示されているのは;「出来上がる」という言葉が、我々が物事に一定の方向性をもってはたらきかけた結果として、はたらきかけられたものが形を成す、という意味をもっているということである。――したがって;「出来上がる」という言葉は、一定の方向に形づくられる運動や活動が、その目的に到達して終わり、成果を残すという意味を含んでおり;このような意味で、動態的な意味合いをもっていると言えよう。――そして;ここで問題になっているのは、単に「成り立つこと」ではなく、「広く認められ成り立つこと」であるから;運動や活動の目的は、すべての人、あるいは少数を除いて多くの人によしとされ、あるいは許されていなければならない――広く認められるという表現は、このような意味をもつ。――かくして;「広く認められ成り立つこと」という表現は、その目的を広く認められた、一定の方向に形づくられる運動や活動が、目的に到達して終わり成果を残す、という動態的な意味をもっている、と言えよう。

他方、「当たり前」という言葉の意味は、[新村=1999]に拠れば;「そうあるべきこと」や「ごく普通であること」である。――これらの言葉の使用を考えよ:我々は「当然、そうあるべきだ」とか、「そのようにするのはごく普通のことだ」等と言うであろう。――我々が前者のように言うのは;我々が何か、広く妥当すべき目的・規範・基準のようなものを考え、それらに基づいて対象のあり方を批判する(例えば;「学生は学業に励む――当然、そうあるべきだ。それなのに、何故お前は遊んでばかりなんだ!?」と言う)ときとか;あるいは、それらに基づいて対象のあり方を支持・肯定する(例えば;「あの時の君が老人に席を譲った行為は正しかった。人間として、当然、そうであるべきだ。」と言う)とき、であろう。――我々が後者のように言うのは;我々が何か、多くの物事に共通する内容や基準のようなものを考え、それを事実として言明する(例えば;「君は進路の問題で悩んでいるが、そのような悩みはごく普通のことなんだよ。」と言う)とき、であろう。これらの使用によって示されているのは;「当たり前」という言葉が、広く妥当する目的・規範・基準や、広く妥当する物事のあり方、という意味をもっているということである。――したがって;「当たり前」という言葉は、そうあることや、そうあるべきこととしてある、という意味を含んでおり;このような意味で、固定的な意味合いをもっていると言えよう。――そして;ここで問題になっているのは単に「当たり前」ということではなく、「ごく当たり前であること」であるが;「ごく(極)」とは「最も」とか「きわめて」とか「この上なく」という意味であり、ある種の強調表現であるから;それとして大きく意味を付け加えるようなものではない。――かくして;「ごく当たり前であること」という表現は、そうあることや、そうあるべきこととしてある、という固定的な意味をもっている、と言えよう。

 

61. 我々は、57. 58. 60. の考察によって、4.の「一般に承認されている」という表現に含まれている、次の意味を明らかにした:「承認」という言葉の意味は「正当または事実・真実と認めること」であり;「認める」という言葉の意味は「見て判断し、かまわないとして許す(あるいは、受け入れる)」であり;「見る」という言葉の意味は、「情報に基づいて判断する(またその判断を基に行為する)」である。――そして「一般」という言葉の意味は、第1に、「広く認められ成り立つこと」という意味を含み;したがって、その目的を広く認められた、一定の方向に形づくられる運動や活動が、目的に到達して終わり成果を残す、という動態的な意味をもっているのであった:――第2に、「ごく当たり前であること」という意味を含み;そうあることや、そうあるべきこととしてある、という固定的な意味をもっているのであった。

――したがって;我々は「一般に承認されている」という言葉の意味を、広く認められているという意味で正当な運動の成果;或いは、存在や当為のあり方として、疑いの余地無くあること、として要約できよう。

 

62. さて;4. を見よ:ところで我々は、「善悪の基準」が「一般に承認されている」ということを問題にできるであろうか? しかし「善悪の基準」とは何か? 我々はどのような意味で、このことを問題にし得るのか? ――ここで、54. 55. 56. の議論を思い出せ!我々はA氏の言動に示唆されているような「個人の内面的な原理」を、行為にあらわれる限りでのみ、問題に出来るのであった。つまり;我々は「個人の内面的な原理」そのものを問題にすることは出来ないのであった。――したがって;我々は「個人の内面的な原理」そのものについて、善悪の判断を問題にすることはできず;我々は行為としてあらわれる限りでのみ――、つまり振舞から読み取るという仕方でのみ――、心的な過程を問題にし得るのである。――我々が問題にし得る善悪の基準は、行為の善悪の基準である。

さて;いま、問題はこのことである:行為の善悪の基準はいかなる仕方で、一般に承認され得るのか?

 

63. ここで;3. で提示した「道徳」の説明を見よ。この説明にかんして、いま、我々は次のように言うことができよう:「個人の内的な原理」そのものが「一般的に承認される」ことはできない。したがって、両者は明確に、2つの異なった別の説明なのである。――確認のために、3. で引いた[新村=1999]の当該部分を、その前後も含めて、挿入等を入れないで引用しておこう:

 

人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる。(下線は筆者)

 

――下線部分は、3. で引用した箇所であり;つまり2つの文を引用したわけであるが;我々は後者については、直接には問題にし得ないのである。かくして;以下では、我々は前者についてのみ問題にする。

――我々に残された問題はこうである:「道徳」すなわち「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」とはどのような意味をもつ表現か? ――そしてその答えこそが、「善」という言葉の意味に対する、我々の立場からの説明である。

 

64. 「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」という表現の構造に注目せよ!――第1に、「判断する」に対する主語は「その成員」であり;「その成員」は「ある社会」に属する個人、または個人の集合を指している:第2に、その個人が「判断する」のは、「社会」と「成員相互間の行為」の「善悪」である:第3に、その個人が「判断する基準」として、「一般に承認されている規範」があり;それが「総体」として存在している、というのである。

 

65. 64. の第1の点について考えよ:――「判断する」ことについては、既に59. で明らかなっているから;ここでは「ある社会」と「その成員」ということが問題になる。――[新村=1999]に拠れば;「社会」という言葉は次のような意味をもつ:

 

人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団。諸集団の総和から成る包括的複合体をもいう。自然的に発生したものと、利害・目的などに基づいて人為的に作られたものとがある。家族・村落・ギルド・教会・会社・政党・階級・国家などが主要な形態。(下線は筆者)

 

――我々はさらに第1に、下線部分に注目しよう:そして第2に、社会と呼ばれるものには、規模やその性質にかんして多様な形態がある、ということに注目しよう。――これらの点に注目するとき;我々の立場からは、社会をどのようなものとして捉えることができるか?

――第1の点、すなわち「人間が集まって共同生活を営む際に、人々の関係の総体が一つの輪郭をもって現れる場合の、その集団」という表現の構造に注目せよ:ここでは「人間が…共同生活を営む」「集団」における、「人々の関係の総体」の「輪郭」が問題になっている。――ここで、「共同生活」は、継続的な相互行為であると考えてよいであろう:また、「集団」という言葉は、「規則的・持続的な相互関係をもつ個体の集合」[新村=1999]を意味する。――そうであるとすれば;ここで問題になっているのは、個人同士の規則的・持続的な相互行為が形づくる、個人同士の関係のあり方である、と言えよう。

 

66. 65. で提示したように、社会と呼ばれるものには、規模やその性質にかんして多様な形態があるのだった。そしてまた;社会とは、個人同士の規則的・持続的な相互行為が形づくる、個人同士の関係のあり方なのであった。――かくして;我々は[L.W.=1953:§2.]で提示されている、「石を積む人A氏とその助手B氏の間の意思の疎通」にかんする、次のような言語ゲームを、社会的な関係の一例として理解することが出来よう:

 

A氏は石材を運んで家を建てている。石材には、台石、柱石、板石、梁石、がある。B氏はA氏に、A氏が必要とする順序で、石材を渡さなくてはならない。この目的のために彼らは、「台石」、「柱石」、「板石」、「梁石」という四つの語で成り立つ言語を用いている。A氏はこれらの語のどれかを叫ぶ;――B氏は、その叫びに応えて持っていく事を教わった石を、A氏の所に持って行くのである。

 

――ここでは、我々は、直接的には[L.W.=1953]の文脈でなく;我々の文脈からこの言語ゲームを検討しよう。――さて;我々は、これが社会の極めて単純な形態の範型であると考えることが出来る。――A氏が大工の親方であり、B氏がその弟子であると考えよう。2人の関係は一つの社会を形づくっており;この社会における相互行為は、A氏の叫びと、B氏のそれに対する反応で成り立っているのである。(ここで、何人が関われば社会として成立するのか、ということは問題にならない:我々はただ、個人同士の規則的・持続的な相互行為の単純な形態について、問題にしているのである。)

――ここで、「台石」、「柱石」、「板石」、「梁石」という四つの語を、大工社会の専門用語であると考えよ。したがって;この言語ゲームを行うA氏とB氏は、そこでの言葉の使用や振舞の仕方について、何らかの仕方で予め訓練されている。それゆえに;A氏は自分が判断する目的に応じて、的確に四つの石の名前を叫び;B氏はそれに的確に反応し、A氏のところへ石を運ぶことが出来るのである。

 

67. A氏とB氏が相互行為を行っている現場を、彼らの言葉を習得していない部外者のC氏が通りかかったとしよう。――いま、A氏が「板石!」と叫び、B氏が板石を持っていき;C氏はこの過程を見届ける。――このとき、C氏は、A氏の「板石!」という叫びの意味を理解できる、というべきであろうか? ――次に、A氏が「梁石!」と叫び、B氏が梁石を持っていき;C氏はこの過程を見届ける。――このとき、C氏は、A氏の「梁石!」という叫びの意味を理解できる、というべきであろうか? ――我々は、そのように言うべきでないのである。――それでは;C氏が何日もその場所を訪れ、A氏の「台石!」、「柱石!」、「板石!」、「梁石!」という叫びに対するB氏の一通りの反応を何度か見届けたとき、彼はA氏の叫びの意味を一通り理解できる、というべきであろうか? ――我々は、そのように言うべきではないのである!

――ここで;C氏がA氏の叫びの意味を理解するためには、B氏と同様の訓練を受けなければならないのである。――そうしなければ、C氏は、たとえA氏とB氏による一通りの相互行為を見届けたとしても;その言語ゲームの全機構が「台石」、「柱石」、「板石」、「梁石」という四つの語から成っていると確認できないのであるから!――このことに関連して、[L.W.=1953:§6.]は次のような比喩を提示する:

 

「私は、指示棒とレバーを結合する事によって、ブレーキを直す。」――そのとおりである;但しそれは、それ以外の全機構が与えられている限りに於いて、である。それ以外の全機構と一緒になってのみ、そのレバーはブレーキ・レバーなのである。ブレーキ・レバーは、それを支えている全機構から分離されるならば、レバーですらない。それは、何でもあり得るが、しかし、何でもないかもしれないのである。

 

68. 言語ゲームにおける訓練とは、その言語ゲームにおける言葉の使用や振舞の仕方について教育を受けることであり;また、実際にその言語ゲームを、他者との相互行為として持続的に行うこと、なのである。――このとき;我々はその言語ゲーム規則に従っており;また、その規則を生活の形式としているのである。――つまり;一つの社会的な関係とは、一つの言語ゲームであり;言い換えれば、社会とは言語ゲーム、なのである。――これが、65. の問いに対する、我々の答えである。また;ある社会の成員であるとは、その言語ゲームにおける行為者であることを意味する。(――そして、65. で提示したように、我々は実際には様々な社会に属しているのであるから;我々は様々な言語ゲームにおける行為者なのである。)

69. 64. の第2の点について考えよ。我々は既に、「判断する」ことについては59. で;「社会」については68. で明らかにしている。――また、「成員相互間の行為」についても、ここで言語ゲームとして明らかにしていると言って良いであろう。――かくして;我々は成員にとっての「社会」の「善悪」と;「成員相互間の行為」の「善悪」を、問題にすれば良い。――ここで、「社会」と「成員相互間の行為」は、共に言語ゲームを意味するのであるから;我々は問題を、或る言語ゲームの善悪に、限定して良いであろう。

 

70. また;64. の第3の点について考えよ。我々は既に、59. と61. の考察によって;「判断する基準」として「一般に承認されている規範」という表現の意味を得ていると言えよう。そして、それは結局;「一般に承認されている規範」という表現の意味に集約されるであろう。――「一般に承認されている」という表現の意味は、61.で提示したように;広く認められたという意味で正当な運動の成果;或いは、存在や当為のあり方として、疑いの余地無くあること、である。――ここで、意味の共有が、規則の共有すなわち言語ゲームにおける生活の形式の一致に基づいている、ということを思い出せ!(41. と68. を省みれば、このことは明らかである。)――このことによって;「一般に承認される」ということは、その言語ゲームの内部においてのみ、可能なのである!――つまり;広く認められているという意味で正当な運動の成果;或いは、存在や当為のあり方として、疑いの余地無くあること;――このようなものは、言語ゲームにおける意味の成立、なのである。

 

71. ここで人は次のように言いたくなるであろう:69. の或る言語ゲームの善悪ということについても、その善悪は言語ゲームにおいて言われることであり;我々は、或る言語ゲームの外から、その善悪を問題にすることは出来ないであろう。――というのは;或る言語ゲームを外から考えようとする人は、あたかも67. でA氏とB氏の言語ゲームを傍観するC氏のような立場にあるのだから。――しかしこのように言うのは誤りである!

 

72. 42. 43. の議論を思い出せ:我々は言語ゲームにおいて、規則の根拠を問題にしたりせず、それに盲目的に従っているのである!――かくして;我々は、我々が現に従っている或る言語ゲームについて、その善悪などというものを、実際には問題にすることができないのである!

(我々が物事をどんなに反省しようと、その反省も、その言語ゲームを通して与えられた言葉による思考に過ぎないのである。)

 

「如何にして私は規則に従うことが出来るのか?」――もしこの問いが、原因についての問い[――これは論理学や科学の問題である――]でないならば、この問いは、私が規則に従ってそのように行為する事についての、正当化への問い[――これが実際の言葉の使用の問題である――]である。

もし私が正当化をし尽くしてしまえば、そのとき私は、硬い岩盤に到達したのである。そしてそのとき、私の鋤は反り返っている。そのとき私は、こう言いたい:「私は当にそのように行為するのである。」[L.W.=1953:§217.](挿入は筆者)

 

73. ここで、我々は「道徳」という言葉の意味について、ある種の規定を与えるのであるが;70. で我々が考えたことは、本来「一般に承認されている規範の総体」の問題であったことに注意せよ。――したがって;「道徳」という言葉は、或る言語ゲームにおいて成立した規範の総体を意味するのである。

 

74. 我々は2. において;「善」という言葉を「正しいこと」、「道徳にかなったこと」を意味するものとして、問題にしたのであった。したがって;これらの用法における「善」を、「正しいこと」、あるいは「道徳にかなったこと」として、置き換えることが出来よう。――ここで、[新村=1999]に拠れば;「正しい」という言葉の意味は、「よいとするものや決まりに合っている」ことであるが;73. の見解にしたがって、我々はここでの「正しい」という言葉の意味を、「道徳にかなったこと」という言葉の意味へと、一元化することが出来よう。

 

75. 善悪も言葉であり;それらも言語ゲームにおける意味の成立である。

 

76. 「善」という言葉は、或る言語ゲームにおいて成立した規範の総体を意味する。

 

77. 「善」という言葉の実際の使用について考えよ!――人は、「善」という言葉について;「困っている人のために募金をすることは、善いことである。」、あるいは「電車で老人に席を譲るのは、善いことである。」という使用があることを、認めるであろう。――これらの表現は「困っている人のために募金をすることは、道徳にかなったことである。」、あるいは「電車で老人に席を譲るのは、道徳にかなったことである。」という使用へと、置き換えられる。

――さて;このようにいくつかの用法を考えることによって――或る言語ゲームにおいて――、「善」や「道徳」という言葉に、定まった意味が与えられると言えるのか?

 

78. [新村=1999]に拠れば;「総体」という言葉は、「全体」とか「大体」ということを意味する。――それでは;我々は、一体いくつの用法を列挙すれば、それが全体であるとか、大体であるとか言い得るのか?

 

79. 「善」という言葉の文法は、きわめて広範な用法をもっている。――そしてそれは、確かに或る意味では;「善」という言葉の文法が、何か具体的な対象や現象とのかかわりにおいて、限定されていない、ということに基づいているのである!――ここで人は;言葉の意味は対象を写像したものであるという、[L.W.=1933]の議論を、「善」という言葉の文法の無限定さの根拠として、持ち出したくなるかもしれない。――しかしこの議論はあくまで、命題についてのみ適用されるものであって、我々はそれをただちに持ち出すことはできない。また、実際の言葉の使用においてこのような考え方を採用することを、我々は[L.W.=1953]と共に拒否したのであった。

 

80. さて;我々は、我々が「薔薇」と呼ぶものを、「考える」と呼んだりはしないであろう。――このような意味では、言葉の意味は対象を写像したものであるとは言わないにしても、対象や現象とのかかわりにおいて、限定されている、と言えるであろう(そうでなければ、言葉は言葉としてのはたらきを成さない)。――日本語で行われる言語ゲームは、日本語の文法を、その重要な規定としているのである。

 

81. ところで;「善」という言葉は、そのままの形では名詞である。――ここで;「善」という名前で呼ばれる対象や現象を言え!――このように言われても、我々は途方に暮れるよりないのではないか? ――それはそうである:そのようなものが言えるならば、我々の問題はそもそも生じなかったのであろうから。

(ただし;固有名詞は除いて考えよ!――というのは、仮に「善夫」や「善子」という名前の人が居て、その人の親が「道徳にかなった」人になるようにという意味を込めてその名をつけたとしても;「道徳にかなった」という表現の意味が言われることにはならず、「善」という言葉の意味が規定されることにはならないから、である。)

 

82. 「善」という具体的対象が見出されないとすれば;我々は「募金は善である。」とか、「人助けは善である。」と言えたとしても、「募金」と「善」を、あるいは「人助け」と「善」を、同語反復であるかのようにみなすことはできないのである。――例えば;通行人に「募金にご協力ください!」と言う代わりに、「善にご協力ください!」と言ったとすれば;仮に通行人が募金箱を見るなどしてその意味は通じたとしても、相手に14. で提示したような驚きを生じることになろう。(しかも、2つの表現は、14. の場合と異なり、論理学的にも同じ意味をもたない。)――そうであるとすれば;「善」という言葉は、「募金は善である。」とか、「人助けは善である。」というように用いるよりないのであり;これらの表現は、「募金は善い。」とか、「人助けは善い。」という表現と同じ意味であると言えよう。――かくして;「善」という言葉の用法は、「善い」という言葉の用法に一元化して説明できるのではないか?

 

83. そうであるとすれば;我々は「善」という言葉を形容詞的に、あるいは述語的に用いる、と言うことができるのではないか? ――「善とは親孝行なことである。」とか、「善とは人のことを思いやることである。」とか言うことは出来る。――しかしこう言うときも、次々と他の「善とは…である。」という言明がされ得るのであり;結局は「親孝行なことは善い。」とか、「人のことを思いやることは善い。」とかと、同じことを言っているに過ぎないのである。

 

84. 顔見知りの子供が「僕は、盗みは善いことだと思う。」と言う場合について考えよ:我々はこの子供の言明を、冗談か本気かのどちらかとして、聞くであろう。――いずれにせよ;この子供が言う「善い」は、我々にとって意味をもってしまうのである。――例えば;我々がこの子供の言明を本気だと受け取り、彼に「それは間違っている!」と言ったとする。この場合も、やはり彼の言明は、我々にとって意味を成しているのである。――しかし;この子供が本当に意味したのがどちらであるかを理解するには――つまりこの言明の意味が正しく伝達されるには――、我々はこの子供とその発言の文脈を共有する必要があり;この文脈が規則であり生活の形式なのである。

この子供を見知らぬ通行人が、この言明を耳にし、それを言うときの子供の表情等を目にしたとき;この通行人はやはりこの言明を冗談か本気かのどちらかとして考えるかもしれない。――そして、この判断が仮にこの言明の意味を言い当てたとしよう。この場合、我々は「この子供の言明の意味はこの通行人に伝達されたのである。」と言うべきであろうか? ――そう言うべきではないのである。それは言わば、偶然の一致に過ぎないのである。

 

85. 「盗みは、法律に抵触するから、悪いことである。したがって、善いことではない。」――よろしい。それでは、次にこのことを考えよ:法律に抵触しないことが、すなわち善いことである、と言えるだろうか? こう言えるのは、あくまで、合法性ということを前提あるいは基準にして、我々が善悪を判断しようとする、限られた場合に過ぎないのではないか?

 

86. ここで;「この薬は善い。」という、不自然な表現について考えよ。――ここでの「善い」は、我々の文脈におけるそれであり;したがって、我々はこの表現を「この薬は道徳にかなっている。」と言い換えることができるのである。(だから、この表現は不自然なのである。)――ここで;この薬は或る疾患の治療において、非常に優れた効果を発揮するとしよう。しかし勿論、用法・用量を守らなければ、服用する人に対して悪影響を及ぼし得るのである。――さて;「この薬は善い。」とあえて言うとすれば、それは例えばこの薬の効能によって、であろう。しかしこの薬は、その用いられ方によっては、その効能を発揮しないかもしれないし、別の疾患を生じさせることもあり得る。そうであるとすれば、この薬は、その用いられる仕方によっては、善くも悪くもなり得るのではないか? そうであるとすれば、この薬の善さや悪さということは、我々がその薬をいかに使用するか、ということに因っているのではないか?

さらには;医師が疾患の治療が目的でこの薬を処方し、医師が指示するように服用し疾患を治療することが善いのであるとすれば;この目的には、「もし健康であろうとするならば…」という前提がある。――そうであるとすれば;「この薬は善い。」という表現の意味するところは、「もしこの疾患をもつ人が健康であろうとするならば、用法・用量を守ってこの薬を服用することが善い。」ということだったのである。(他の様々な道具や物についても、同様に考えてみよ!)

 

87. 「…は善い。」という表現は、およそ人間の行為についてであれば、何についてでも言われうる。(考えてもみよ:いくら健康を損ねても、飲酒や喫煙には代えられないという人も居るのである。)――しかし、対象そのものについて「…は善い。」という表現を用いるのは、不自然なのではないか?

(このように考えるとき、我々は76. の主張を、より根本的な相において、理解するであろう。)

 

88. さて;1. で提示した我々の根本問題は、このようであった:「善について考えるとき、我々はいかなる状況に立たされているのか:我々はいかなる意味において善を語ることが出来るのか」。――ここで語る、考えるということはどういうことであったか;52. 53. の考察を思い出せ!――これらから;我々は、「語る」という言葉の意味は、「考える」という言葉の意味に含まれ;そして「考える」という言葉の意味は、振舞すなわち行為一般の意味である、と言うことが出来よう。――そして、53. の繰り返しになるようだが;振舞すなわち行為一般の意味は、正に言語ゲームにおける意味、そのものなのである。

 

89. ここで注意せよ:我々は69. の或る言語ゲームの善悪ということについて、次の問題を忘れてはならない。――或る言語ゲームの善悪を、別の或る言語ゲームから問題にするとはどういうことか? ――この問題が重要なのはなぜか? ――それは、我々が物事の善悪を問題にするのは――少なくとも人間の行為についてこのことを問題にするのは――、この場合以外にあり得ないから、である!ここで我々は、或る言語ゲームへの別の言語ゲームからの言及という、新たな次元の問題に直面せざるを得ないのである。

(しかしこの問題を引き続いて哲学的に考察するとき、我々は何か成果を得ることが出来るのであろうか?)

 

90. また、次の点にも注意せよ;言語ゲームの規則が固定されていると考えるのは誤りである!――我々は幾つもの社会、すなわち言語ゲームに属しているのであり;我々は他者とのかかわりの中で、不断に多種多様の訓練を受け続けている。――だから、我々の振舞は決して一つの言語ゲームに基づくものでは無いし;我々の振舞や、他者のそれに対する反応の仕方も、不断に変化し続けていると言えよう。――また、一つの言語ゲームも、そのような人々が参加し相互行為を行うことによって;不断にそのあり方を変じている、と言えよう。

 

91. 我々は、常に何らかの言語ゲームの中で、その規則に従って生活している。――しかし我々は、その規則の究極的な根拠なるものを認識することはできない:認識する、ということ自体、規則に従ってのことなのだから。――そして、その規則は、不断にそのあり方を変じている。――物事を倫理学的に捉えようとするとき;我々はどこまでも、その事を反省しながら考え、語り、行為するよりないのである。

 

 92. かくして;我々の根本問題に対する我々の見解はこうである:「善は、人間の行為について言われるとき、有意味たり得る。そして、善という言葉は、或る言語ゲームにおける実際の言葉や振舞のやり取りの中で、その意味を獲得する。我々がこのような善について考えるとき、我々自身もまた、別の或る言語ゲームの中に立たされている。――したがって;我々は或る言語ゲームにおける言葉の実際の使用においてのみ、有意味な善を語ることが出来る。しかし;それもそのときの我々自身の前提である規則に基づいてのことであるから、我々はその語りがどこまでも相対的なものでしかないことを自覚しなければならない。」――この見解にどこまでも定位することが、倫理学の正しい方法にほかならない。――善とは、ある意味では相対的なもの、なのである。

 

93. 我々にとっての意味は、言語ゲームにおける言葉や振舞の意味の成立である。――我々がこのことを自覚しないとき、意味が対象として与えられていると考える誤りを;そしてそれゆえに、我々は対象の意味を認識できるのだと考える誤りを、犯してしまうのである。――もし誰かが、世界に意味が与えられ、また善そのものが存在する、という考えをするとすれば、その人はこのような誤りを犯しているのである。(勿論これは、日常の言語の使用を離れて、哲学的な問題を考えるときにのみ生じる誤りに過ぎない。)

 

94. 「曲がっている木をまっすぐ見る」とはどういう意味か、考えよ!――なお、この曲がっている木は、平らな地面に生えており;人はこの地面に立って、この木を見るのである。そして、空間をX軸(ここでは東西の方向)・Y軸(ここでは上下の方向)・Z軸(ここでは南北の方向)として考えよ。人が立つ地面は、X軸とZ軸が形成する平面である。そして、この木の幹は、X軸とZ軸において;X軸の方向にのみ、「S」の形に曲がっているとしよう。――したがって、この木はX軸の方向から見ると、「I」の形に見えるのである。

――ここで、X軸の方向からこの木を見て;「この方向から見ることがこの木をまっすぐ見ることです!なぜなら、今私はこの木がまっすぐに見えているのですから!」などと言う人がいれば、その人は誤りを犯しているのである。――何故なら、「曲がっている木をまっすぐ見る」と言うとき、「まっすぐ」は「見る」に係っているのであり([新村=1999]に拠れば;「まっすぐ」は「正直」という意味ももつ!);この文章の意味するところでは、木がまっすぐ見えようと、曲がって見えようと、そのようなことは問題にならないのであるから。――このことは、我々が善について考え、語るときに置かれている状況に似ているのではないか?

(ここで誤る人は、「まっすぐ」と「見る」の間に、勝手に「に」とか「であるかのように」等を補っている。そしてこのような人は、言葉の意味ではなく、事物そのものに意味を求めるということに関心が行っているのである。)

 

95. 我々は、91. のように言う。――しかし;我々がどこまでもある言語ゲームに立っているということが、我々にとって善という言葉を意味あるものにさせているのではないか?――「全ての殺人は悪いことであり、かつ善いことでもある。私はこのことを、どのような個別の殺人行為についても、全く同時に言う。」という言明について考えよ!――この言明においては、善や悪という言葉が全く意味を失ってしまっているのではないか? ――善とは、或る意味では、相対的なものである。しかし、我々が物事の善悪を判断するとき、それは決して相対的なものではない!

 

96. したがって、ある意味では逆説的に;我々が具体的な問題について倫理学的な反省を行うときには;[岩崎=1974(1977)]の次の主張に――「哲学」という言葉を「倫理学」に置き換えてであるが――同調すべきである:

 

一番大切なのは価値の相対主義に陥らないということです。すべての人がほんとうにわれわれ自分みずから真の価値というものを探求していくという、そのことが本当の意味で哲学だと思うのです。知に対する愛だと思うのです。……ほんとうに正しい価値観を求めて探求することが何ものにもまして重要であるということであります。

 

97. 言語ゲームそのものが立っている基盤を考えよ!――我々はどこまでも、言語ゲームの意味の世界に生きており;その意味でどこまでも、他者とのかかわりの中で行為し、生きているのである。我々はこのあり方を、決して廃棄することはできない。――かくして;他者とのかかわりは、我々にとっての意味の源泉である。――しかしそれは現にそうなっているということであって、我々の考察から、このことをどこまでも尊重せよ、とか言うことは出来ないのである。

 

97.1.  しかし;そうは言っても、倫理学が事実上の価値相対主義に陥らないためには、[カント=1785]の命法のようなものを持ち出さざるを得ないのではないか? すなわち:

 

汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として取り扱い、けっして単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ。

 

――いつも、自分と他者の人格を等しく尊重するよう、反省を心がけながら、社会の中で行為せよ:この命法は、このように呼びかける。――しかし、このような原則をただちに持ち出すことは、出来ないのである!

 

98. 93. や94. で提示したような誤りを犯す人や、我々がこれまで論じてきた問題の意味を理解しない人――このような人が哲学を語るとき、そこでは空虚な幻影が語られている。――しかしそのような空虚であるはずの語りも、それが人々に語られ聞かれたとき、何らかの新たな意味を生じて行き得るのではないか? ――確かに、そうなのである!我々はあくまで、意味の伝達についての確実性を目指していたに過ぎないのである!(それは言わば、意味の伝達にかんする必要最低条件ではない!)――しかしこのことは、有意味な善というものについて考える限り、重要な問題なのではないか?

 

99. 結局;私は[L.W.=1933:6・54]を捩って、次のように言いたい:

 

私の主張を理解する人は、私の言明を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にそれが空虚であると気づく。そのようにして私の諸言明は説明を行なう。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)

私の諸言明を葬りさること。そのときものごとの意味を正しく見るだろう。

 

100. 何が善いのか――このことは、実際の行為を通じて、我々に開かれていくのでなければならない。(これは厳密な意味で、そうである。)

 

 

  参考文献

新村 出 編 1999 『広辞苑 第5版』 岩波書店

ウィトゲンシュタイン 1933 『論理哲学論考』(野矢茂樹 訳) 岩波書店 2003.

―――――――――― 1953 「哲学的探求 第Ⅰ部」(黒崎宏 訳:『『哲学的探求』読解』所収) 産業図書 1997.

和辻哲郎 1937 「倫理学 上」(『和辻哲郎全集 第十巻』所収) 岩波書店 1962.

岩崎武雄 1974 「最終講義」(『存在論・実践論〔哲学体系第二・三部〕』所収) 東京大学出版会 1977.

カント 1785 「人倫の形而上学の基礎づけ」(野田又夫 訳:『世界の名著 32 カント』所収) 中央公論新社 1971

「砂の器」の末路ー日本のテレビ界の終焉ー

 「ハンセン氏病ということば抜きでなら」
 最近の『砂の器』リメイクverを放送するにあたり、松本家側からそんな提示が在ったようだ。
 あろうことか、テレビ局サイドも
 「ではでは、ダム建設?の賛成派と反対派の抗争のの結果の殺人ということで」
 となり、社会の『線引きの意味』や『社会から業病とされた経緯』ついて考えさせられるどころか、あまりに浅く、矮小化された、『砂の器』になってしまっていて、私なら、「遺伝子の因子の問題等」、リメイクするにしても根幹は同じであってほしかった。
 英国のテレビ局に倣っての現代版『シャーロック1・2・3』のように何故根っこを変えずに現代版に焼き直せないのか。
 日本の名作をも浅く広くしてしまうテレビ界に呆れ気味である。

Φという記号が、どこか、似つかわしい「少年A」と呼ばれたひとが、いた。

 私は、「一番、美しいところで、止めない行為」を厭う想いを持つ、三島由紀夫氏と坂東玉三郎氏に憧れている。

 三島氏の『天人五衰』のなかの本田繁邦にも、坂東氏が坂東氏の『鷺姫』を封印した経緯にも、その想いをみるように思う。

 

 ところで、Φ(小松勇作編『数学 英和・和英辞典』(共立,1979年)3通り載せていた2番目のものはまったくの空集合の意味でのϕ(ファイ)である。

 Φを視ると、「少年A」と呼ばれたひとが、いた、ことを思う。

 最終的には、「彼の背景を紐解いていきたい」と思う。先ず、

 

What  is THE reason to be such a murder?

 

 を少年Aが好んだ、ダリの「燃えるキリン」という絵画に描かれている『松葉杖』をkeyにしながら、考えてゆきたい。

 ところで、松葉杖は、「補助器具」として、治療期間の「一時期」に於いては、必要不可欠だ、と私は、思う。

 しかし、松葉杖を、治癒に必要な「一時期」を超えて、用いることは、逆効果であろう。

 何故なら、「補助器具」に傷を癒すまでの「補助」の「役割」を、何時(いつ)までさせるか見極めない限り。治癒した脚に漫然と「補助」を着けていれば、本来の脚の筋肉量まで戻ることなく、「歩きづらい」感覚が増し、「やはり松葉杖が(まだ)要る」とデフレ的なスパイラルに陥るように、私は感ずる。

 

 それは、私自身が、統合失調症等々の治癒の過程で、多剤処方に甘え、抜け出すのに苦労した、と感じているからかもしれない。

  

  DSMに拠れば「人並み外れてこだわりの強い人」は、『発達障がい』とされているし、DSMに則れば、現代では『統合失調症』とも「診断」されるであろう人物たちで、私が天才だと思う人物、を、まず、3人上げたいと思う。

 Ⅰ.エヴァリスト・ガロア(発音はワに近い;Évariste Galoisガロア※1以下ガロア)やⅡ.クリストス(フリストス)・ディミトリオス・パパキリアコプロス(ギリシャの数学者なので、ギリシャ表記:Χρίστος Δημητρίος Παπακυριακόπουλος※2以下パパ)、Ⅲ.サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネクSalvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech※3以下ダリ)は発達障がいなのかい?統合失調症なのかい?と問いたくなる。

 Ⅱ→Ⅰ→Ⅲとみてゆきたいと思う。

 

 Ⅱ.位相幾何学トポロジー;geometric topologyの学者、パパは、「『ポアンカレ予想が証明できるまで』恋人との結婚を棄て」、非常に時間に過敏であるため、「毎日8時にカフェ朝食をとり、8時半から11時半まで研究、1時間の昼食のあと12時半からまた研究を再開し、15時に誰とも話さずに「談話室」でお茶を済ませると、16時には研究室に戻るといった生活を送っていた。

 人付き合いはあまりなく、15時のお茶の時間以外はほとんど人前に姿を見せなかった。徹底した秘密主義者でもあり、談話室で他学者に自分の研究内容を話すことはなく、いつも独りであり、パパは渡米してから逝去までの25年以上、あるホテルの同じ部屋で暮らしており、一度しか祖国に帰らなかった。

 パパには米国内に身よりはおらず、葬式すら行われなかったという。墓所の場所も明確にはわかっておらず(プリンストン大学には共同墓地があるが、そこに葬られているという記録も確認できない)、生前に見知った人たちにもパパの墓の場所を知る人はいないようだ。

 現代にパパがいたならば、パパのいた時代より、パパは酷い「異常・狂気」の「治療すべき患者」になっていたかもしれないと思うと、ぞっとするのである。

 

「Because  you  are  you.」という考え方の再来。

 

   私が、高校時代の頃だろうか。

  SMAPの「世界で一つだけの花」をはじめて聞いたとき、大学受験しか見ていない視野狭窄な時期であったため、「負け犬肯定ソングだ」と思った、否、自分に信じ込ませた時期がある。

 

 『No.1にならなくてもいい、もともと、特別なOnly.1

 

 という歌詞が、偏差値や模試の順位に一喜一憂していた私にとって、我慢できないものだったのだ。

 

 結局、私は、志望校どころか、国立後期発表が過ぎてもセンター入試で受かった大学しかなく理系→文系となり、ますます、自分嫌いが増幅した結果となったのだったが……。

 

  暫くして、なぜフーコーが「常識」とは異なる見方に立ち、「狂気に関する異なった歴史解釈」をする事ができたのだろうか?と考えたり、自身が難治性うつと診断されるまで、その捉え方のままであったように思う。

  M・フーコーを読み始めたことがきっかけで「Because  you  are  you.」という考え方の再来かなあ、と肯定的にそれまで、眼を背けていた「世界で一つだけの花」の歌詞に向き合い始めたように思う。

 フーコーの思想は、彼の生きた社会も、男女の異性愛が「当然」であるという考え方に基づいて社会制度が成り立っているが、フーコー自身がホモ・セクシャルであったという事実を抱え、「当然」や「アタリマエ」とされるもの、に、深刻に向き合ったことが深く関係していると私は思う。

 

 「当然」・「アタリマエ」の定義(以降Def)をたいして考えずして何かを「当然」・「アタリマエ」として社会制度を維持していく事で、無自覚に同性愛の人たちを抑圧し「権力」を行使していることに、悩んだフーコーだからこそ語ることが出来る意見に彼の著書は、満ちていた

 

 しかしこのような「当然」・「アタリマエ」≒「真理(とされているもの)」はどのようにして生成されたのだろうか。

 

 視点を、一度、日本に向けて、森田療法の生みの親の、森田正馬氏のことばから、彼の思想を再評価してみたい。

 

 まず、森田の神経(質)症に対する指導の根底には、神経(質)症に限らず、「社会に適合できない」と感ずるものや、「適応しなければ」と焦るものが持つ不安や恐怖に対する理会があったと思う。

 それは、森田自身もやはり神経症に悩み、それを克服した事が関係しているだろう。

 ゆえに、森田はそのような恐怖や不安を常識的観点から「馬鹿げている」とせず、共感を示しつつ、それらを当然あるものとし、「受容する」ことで成長させようとした、と言えるだろう。

 森田は、患者の「純な心」(≒清い明き心・清明心※1)を大切にし、その上で不安や葛藤を受容しつつ、固有の生を生きる主体として世界に立ち向かう「ひとの在り方」を診ていたのではないだろうか。

 彼らの「哲学」は、「患者(とよばれるひと)が生きていく上で、社会での価値評価にそぐわない自分であったとしても、自己を放棄して生きるのではなく、自らの固有の生を生きることによって根本的な解決に至る可能性」を示している。

 

 森田の視座は、フーコーの思想を「励ましの思考」として捉える学者の視座に通じるものである、と私は、思う。

 

 彼らの思考とその経緯は、「フロイト、ビンスワンガー、カント等、多くの思想や理論が、真理として通用している共通の世界、常識的推論の世界への転向こそが、精神の再生をもたらすと説き」、そうした思想の流れのなかにあって、そのような転向によらずに人間の精神の根本的な再生へと至りうることを示唆している。

 

 ホモ・セクシャルや神経(質)症等の『ひと』たちを「異常なもの」・「病理的なもの」・「不自然なもの」と見なす根拠を理論化して排除し矯正しようとする『社会』では、そうした思考の様式はおきまりの「外部」からの抑圧や人を支配する力として彼ら/彼女らの異常性を疑う余地がないかのように顕わにし、彼ら/彼女らの欲望と存在そのものを否定する。

 

 現実の問題を解こうとしたフーコーにも森田にも、乗り越え難くむしろ自己の『内面』の心ならずの改変を『外部』から「押しつけられる」問題を抱える者たちは、引きつけられるのであり、どんな人間にも『あなたが、あなただから。=Because you are you.』、

『ここに居てよいのだ』という強い存在の肯定をみてとれよう。

 

  誰もが自分を肯定しながら生きていく事を森田の哲学は訴えている。

 

「皮相上滑り」な西欧輸入精神医学や心理療法の背後にある思考方法は、患者が望むか望まないかは別にして、医者が患者の上に立ち、患者を正常な、または社会的に望ましい人間像に適合させるという面があり、患者はそれに盲従する。

 すなわち関係としては、医者が患者に対して自己中心的に振舞う関係であるといえよう。

 それに対し、フーコーの思想や、森田療法は、日常生活の指導などで、権威主義的に見えようとも、その理論は本人の矯正を図るのではなく、患者の「あるがまま」を尊重し、何処にもない「固有の生を生きたい」という欲望の自覚に導く事で、自ら価値を生み出していくような人間になることを志向している。

 この視座において、森田と患者は対等な関係なのであり、「医者―患者」という従属関係ではないと考えることも可能であろう。そして現代社会においていかに「神経(質)」的な性格等、「異常または狂気」が低く見られていようとも、また外部が科学的に「これで治る」というような安易な解答を我々に突きつけてこようとも、さらに外部がどのような「かくあるべし」を提示してこようとも、自分らしく現実を突き抜ける方法があるという事を示している。このように森田の思想を再評価する事ができるのではないだろうか。

 ※1 は筆者の感想である

 

与党と野党、黒と白のような共通点がある違い。

 今期のあるドラマの主題歌のフレーズを聴いて、

 先を越されたような、反発したいような気持になった。歌詞を(一部私の聴こえ方を入れながら)、以下、描き出してみました。

 

「僕は人間じゃないんです ほんとうにごめんなさい

 そっくりにできているもので よく間違えられるのです

 

 僕は人間じゃないんです じゃあ何かと訊かれましても

 それはそれで皆目 見当もつかないのです※1

 

 見た目が人間なもので 皆、人並みに相手してくれます

 僕も期待に応えたくて 日々努力を惜しまないのです

 笑顔と同情と謙遜と 自己犠牲、朝起床に優しさと

 僕には一億を超えそうな 必要事項を生きるのです

 

 しかしまったくをもって その甲斐もなく

 結局モノマネはモノマネでしかないのです

 

 しかし まったくをもって その甲斐もなく 結局はモノマネはモノマネでしかなく

 ひとり、またひとりと去ってゆき 人間が剥がれ落ちるのです

……(中略).......そのうち今どんな顔の自分か わからなくなる始末です

 ※1

 僕もいつの日にか 人間になれるのじゃないかって

 そんな夢をみていました 夢をみていました

 ほどよくテキトウに生きながら ほどよくマジメに生きながら

 全然大丈夫なフリしながら たまに涙流しながら

 

 手に入れた幸せは忘れるし 自分のことばかり棚に上げるし

 (自分で)怒らせ、イラつかせ、悲しませ、一体、僕は、誰ですか?

『どうせ、こんなことになるのなら はじめから僕の姿形を

 人間とははるか程遠いものに してくれたらよかったのに』

『誰かのため 生きてみたいなあ 

 生まれた意味を 残してみたいなあ』

 この期に及んで まだ 人間 みたいなことを 抜かしているのです

 人間としての初歩中の初歩を 何一つとして出来ないままに……

 

 よくもそんな気になれたもんだ 怒るのもごもっともです

 

 僕は人間じゃないんです ほんとうにごめんなさい

 そっくりにできているもので よく間違えられるのです

 

『僕も 人間でいいんですか?  誰か答えてよ

見よう見まねで生きてる 僕を許してくれますか?』

 

 僕は人間ではないのです 本当にごめんなさい

 そっくりにしているもので……バッタもののわりにですが

『なんど諦めたつもりでも 人間でありたいのです』」

 

 白いと甘い、と、白いと黒い、の区別がつかない人々を侮蔑してきた。

 私にとっては、その考察をさらに深めるRADWIMPSの歌詞であった。

 今日は、便箋と筆ペンを買った。最近は筆をとらない若者が多いように思う。

 次に恩師に会う時までに、思い切り、筆で、様々なことを、描いてみるつもりである。

 

 

 

 

 

 

  

 

♯9110すらアテにならない

TVでは無責任にもコメンテータが

「警視庁総合センターで#9110で助けてもらえますので、ぜひ。」

とおっしゃっていたが、マトモに受けてみてもらった試しはない。

 

要は、「誰も助けてくれない」のである。

 

 

【修士論文(2015年1月)はじめに】 『絵画療法の可能性』を描くにあたって より

はじめに
 精神医療の現場において世界共通の基準を導入することが合理的とする風潮 があるが、本当にそうであろうか。 確かに人間本性の同一性という観点からは合理的であろう。しかし、私は人 間とは「とき」と「ところ」に依っても規定されると考えるので、世界共通の 基準を導入することに疑問を感じる。
 日本の哲学者・和辻哲郎(1889~1960)が著した『風土』によると「風土」 は単なる自然現象ではなく、その中で人間が自己を見出すところの対象であり、 文芸、美術、宗教、風習などあらゆる人間生活の表現が見出される人間の「自 己了解」の方法であるという。この規定を基に和辻は、具体的な研究例として 1. モンスーン型 2.砂漠型 3.牧場型 4.ステップ型 5.アメリカ型という分類を確立 し、それぞれの類型地域における人間と文化のあり方を把握しようとした。
 現代(2014)の日本の精神医療の現場は、米国の診断基準であるDSM ( Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders 精神障害の診断 と統計マニュアル )を導入し、薬物療法が中心である。その薬物も同じく米国 の製薬会社アップジョンが 1982 年に開発し、承認を受けたトリアゾラム、1856 年にイギリスで発見されスイスのガイギー社が改良・製品化した三環系抗うつ 薬、イギリスグラクソ・スミスクライン社で開発された SSRI(1991 年にイギリ スでセロキサット、1992 年にアメリカでパキシルの商品名で市場に出た。)と 欧米発のものが多くを占める。日本では 2000 年あたりから、パキシルのマーケ ティングのために軽症のうつ病を説明する「心の風邪」という言葉が用いられ た。
 日本独自の療法は、1919 年に森田生馬により創始された精神療法である森田 療法があまりに有名であるが、森田正馬は薬を使わず、いわば「思考」の形の 変容を療法の主軸としている。しかし、現代の精神医療の現場では、欧米由来 の対症療法(薬物療法)との融合や欧米由来の薬物療法が中心となっている。
 私は第 1 章で、薬物市場と自殺者数の変動時期に発生していた事象に着目し、 DSM薬物療法中心の治療の問題点を指摘。第 2 章では、西欧の対症療法的な治 療と日本の非対症療法的な治療を比較検討。第 3 章では、日本と欧米の絵画の 相違の根拠を和辻哲郎の『風土』に求め展開。第 4 章にて、日本における八王 子平川病院での絵画療法の可能性を考察。第 5 章にて、デュルケムの『自殺論』・ 仏ラ。ボルト病院の取り組みを基に現代日本の精神医療への提言。結びにかえ て、梶井基次郎の『檸檬』の主人公の行動から、裡にある芸術的な心理療法の 描写を読み取りメッセージとした。
修士論文では】
・DSMへの疑問。 ・フーコーの「狂気の歴史」、「臨床医学の誕生」を踏まえた異常概念の出現 と思想上の変遷(「異常≒非理性」とされたことについて主に着目)。 ・現在「精神病(と呼ばれるもの)」の定義の考察のため森田正馬の思想「森 田療法」の今日的意義の考察。
和辻哲郎ハイデガーから「とき・ところ」の視点がグローバルスタンダー ドとされているDSMには欠落しているとの指摘。 ・日本における芸術(主に絵画)療法の可能性(八王子市平川病院造形教室の 歴史と取り組みから)。 ・現代日本の精神医療への提言(仏ラ・ボルド病院のしくみから) という構成で書きました。