「正直なイアーゴー」への提言

「正直なイアーゴー」への提言

 オセローにおける、イアーゴーの立場を鑑みるにつけ、何が虚実であるのか、

考えさせられる。

What is a reason to love and to be loved ?

FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed You most,
You leave me."

He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.

 

1964 by Margaret Fishback Powers

 

 

あしあと

 

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。

 マーガレット・F・パワーズ 1964

「逃げ」とは何かについて1-time up ver

 

 軍事的な観点からは「平和・繁栄」†0に属するといえる時代、でありながらも、労働・勤勉・清貧・道徳、と呼ばれるものが、蔓延った時代に何が起きるのか。

 私には、当時、人気を博したドイルの作品に目を向けずにはいられない。

 何故なら、コナン・ドイルの時代は顕著に「価値観の頼りなさに惑う時代」†1が観得る時代であるように思うからだ。

 ドイルが言いたかったこと、を、視るためには、ヴィクトリア時代のロンドンに眼を向けること、が、重要に思われる。

「紳士/淑女たち」の外見上の振る舞い≒仮面を剥せば、「その逆の最たる者たち」となる時代。

 ヴィクトリア時代後半の、薬物・煙草・アルコール・娼婦に身を委ね、その快楽に拠って死亡した者と消費量の関係性が高いため、ある程度の、予測、曳いては、それを、立証できる。

 特にヴィクトリア時代後期は、そのような二面性に注目した、ステーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」が生まれ、ドイルと(orにより)ホームズが生を受けた時代である。

面白いことに、ヘビースモーカーで薬物・賭博依存である、ホームズ自身が「真実」・「真相」を暴いている。

(これは、同じ推理小説という分野から「戦争・混乱」†2、二度の世界大戦にmessageをポアロを通じて「人間の業」について投げかけた、アガサ・クリスティー以て非なる部分を生み出してもいる†3。)

ニーチェやバーナード・ショウのいう「超人」を大衆やドイルはホームズに投影したのかもしれない。

フランスでいう、ナポレオン・ボナパルトのイギリス的存在を人々が、「ennui(≒この場合平和による倦怠)からの穏やかなる†4逃走」を文学の中に求めていたのでもあろう。

「悪癖のある超人」、のちに日本でいえば梶井基次郎、延いては、三島由紀夫あたりが目指した人物像かも知れない(決して太宰ではないように思う。単に筆者が太宰ぎらいであるからであり、完全な趣向が働いた私見であることに留意されたい)が、ホームズは、コカイン中毒である描写が散見される(ex:「四つの署名」)

 実際、先にも挙げたスティーブンソンもアヘンに耽溺していた。

 当時「も」、コカインやアヘンは単なる道徳的ではなく不健康(†5:現在の精神疾患についてのマニュアルとして名高いDSMなら、それらの状態を、どう、裁くであろうか?)とされていた。

アルゼンチン帰りの「軍医」ワトソンには好まれざる習慣≒悪癖と映る描写も散見される。産業革命以来の「自然な身体の阻害・排除」†6の体現こそ、ワトソンにも思える。

いつの世も「世間」とはよく見れば個性も持論もないひとりひとりの眼の集合体であるのだが、彼らが、「卑俗な身を滅ぼすもの」≒「悪癖」といえないものばかりが悪癖・狂気とされているように感ずる。

また、ホームズの孤独(学生時代の友達ゼロ)さから、ワトソンファンは意外に多いが、私は、ホームズの孤独は認めつつも、ワトソンの孤独こそ、泥濘のなかに脚を取られたものであり†7、孤独なエリート、孤独だったゆえの献身だったように思えてならない。

(続く)

恩師との会話―「……『坊ちゃん』じゃないけどさ、人間≠神なんだから、総てを崇拝できないワケだから、反発すべきところはあるのだから、考えなさい、な。」―

 恩師との会話―「……『坊ちゃん』じゃないけどさ、人間≠神なんだから、総てを崇拝できないワケだから、反発すべきところはあるのだから、考えなさい、な。」

 はあぁ、なんか、私らしくないっていう感覚を持たれているのかなあぁ?

 

記念を求める心理

「不安」という心理に振り回されている自分を感じる。

 それは、

最後の手紙

「遺書でもなく、事務的な遺言状でもなく、精神的に愛したひとに、『最後の手紙』を描こうとするとき、思い当たらない、という事実が、私の胸を針のように刺した……あまりに、それは、寂しい……。」

 先程、「やすらぎの郷」(7月6日放送分12:30~12:50;テレビ朝日の連続の昼ドラマ)のなかで、作家菊村栄(石坂浩二)が独白するシーンで、このような上記のような詞があった。

 観ていた私も、心を抉られるような衝撃を受けた。

 同時に、ふたつの作品が、私の脳裏に去来した。

 ひとつに、三島由紀夫氏の「天人五衰」のラストに本田繁邦が思う内容。

 ふたつに、心の病や生きにくさを日記形式でネットに吐露し、(死後、日記の一部が書籍化された)「卒業式まで死にません」の著者である故南条あや氏(満18歳没)の4つの詩を思い出した。特にそのひとつの「私のことを」という詩が思い出された。

 「私が消えて

  私のことを思い出す人は

  何人いるのだろう

  数えてみた

  ・・・

  問題は人数じゃなくて

  思い出す深さ

  そんなことも分からない

  私は莫迦

  鈍い痛みが

  身体中を駆け巡る」

「私のことを」と「名前なんかいらない」のふたつをみても、4つの裡には、一見、矛盾するような表現もある。

 しかし、これら4つの詩に共通することは、死の前に、信頼する恋人に託すように送られたことだ。

 彼女の死因は推定自殺のままだ。

 致死量に満たない処方薬の乱用だったが、リストカットオーバードーズのような自傷行為のため、心臓の弁に穴が開いてたようだ。

 しかし、彼女は、「死のうとしていること」をいうことのできる相手がおり、その点は、菊村と異なっている。

 眼前で鳴り続ける携帯電話の前で、彼女は向精神薬等により、意識が遠のくなか、どんな想いで、いたのだろうか。看取られる暖かさというものに包まれながら、彼女は亡くなったのだと、私は信じたい。

 「やさらぎの郷」の菊村を通して、倉本聰氏が描き出す、「虚無感」・「孤独感」は、多くのひとびとと逢いながらも、結局は、何を手にしたかわからない年月の痛みではないだろうか。

 三島由紀夫氏の「天人五衰」の死を悟った本田に「.......何もないところに来てしまった。」といわしめている。

「死」の在り方を考えるとき、私は、

 最後の手紙を描ける人生が、やはり、羨ましい。

 と思う。

 

国語力は数学の証明に役立つ。

 昔の証明を見ていて、文章力は数学の証明に役立つ、そして、また逆も然りだと思えた。

fgV→Wを線形写像dimVdimWとするとき、次の不等式を証明せよ。
Dim Kerfg≦dimKerf∩Kerg)+dimImf∩Img
 
 
{方針}KerfKergに入るか否かで直和に分解していく。
 
Proof
 
V1={x|xKerfに属さない}
V2={x|xKergに属さない}
V3={x|xKe(f+g)に属さない}
とする。
 
dimV1=dimImf,dimV2=dimImg
V=V1∩V2+Kerf∩V2+V1∩Kerg+kerf∩Kerg
V=V3+Ker(f+g)
(+は直和)
 
ここで
dimV=dim(V1∩V2)+dim(Kerf∩V2)
+dim(V1∩Kerg)+dim(kerf∩Kerg)
 
x∈Kerf∩V2の時
(f+g)(x)=g(x)≠0
よって
xKerf(f+g)に属さない
 
x∈V1∩Kergの時
(f+g)(x)=f(x)≠0
よって
xKer(f+g)に属さない
 
よってKerf∩V2⊆V3,V1∩Kerg⊆V3
(Kerf∩V2)∩(V1∩Kerg)=0より
Kerf∩V2+V1∩Kerg⊆V3
(+は直和)
したがってdimV3≧dim(Kerf∩V2+V1∩Kerg)
=dim(Kerf∩V2)+dim(V1∩Kerg)
dimKer(f+g)=dimV-dimV3
≦dimV-dim(Kerf∩V2)-dim(V1∩Kerg)
=dim(V1∩V2)+dim(kerf∩Kerg)
 
 
      Q..